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或る殺人未遂事件

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『或る殺人未遂事件』







書店を覗いた帰りである。

雉明零が鴉乃杜学園の傍を通り掛かったのは勿論、偶然ではなかった。
そもそも神社を出る時から時計を見、書店で時間を見計らい、終業時刻に合わせて此処へ来たのだ。



既に下校が始まっているようで、学校の中は少し賑やかだった。
校門のぎりぎりの処へ立ち、雉明は、其処から校舎を仰ぎ見る。白く煙る己の呼気に透けた鴉乃杜学園の校舎。
七代千馗の、通う場所。七代が大勢の仲間たちと共に過ごす処。そうして鴉乃杜の生徒でない雉明には入る事の出来ぬ処。
札としての能力を概ね失った今でも雉明は気温の高低に鈍感な方だったが、それでも何故か指先が冷えたような気がして。するりと指を擦り合わせて白い息を吹きかける。

七代

校舎と、流れる生徒たちの波を眺めながら、雉明はこっそりと名をこぼした。
せめて共に帰れたらと思い、此処まで来てみたのはいいけれど。
ちゃんと七代に会えるだろうか。
部には入っていないから放課後学校へ残る理由はない筈だが、七代がよく図書室を利用している事は雉明もよく知っていたから、今日も寄るのであれば少し遅くなるのかも知れない。
勿論、雉明は七代千馗を待つ事に対し、何の苦痛も感じない。今は何処を歩いているのだろうか、何を思っているのだろうか、どんな表情をし、何を見ているのだろうかと、様々な事を考えながら七代を待つのは雉明にとってはむしろ、幸福である。けれど。

もしかすると、此処で待っているのは迷惑に、なるんだろうか

校門をくぐって通り過ぎていく生徒たちがみな、あまり一様に此方を見詰めるので、雉明はほんの少し不安になってしまった。七代の迷惑になる事は全くもって雉明の本意ではない。
七代千馗と同じ制服を着た生徒たちの眼と、それに晒される己。
嗚呼、やはり己は彼らとはちがうのだと雉明は思い。仄黒い色が一滴、胸の中へ混じる。その一滴分重くなった益体のない気持ちを払うようにふるりと頭を振った。
栓無いことなのだ。それを思うことは。
七代は、雉明がにんげんとは違っていても、それでもとてもやさしく笑ってくれる。慈しんでくれる。だから、それでいいのだ。それだけが雉明の全てである。

何とか己の中に沸いた馴染みの渦を落ち着かせた頃、雉明はふとポケットに仕舞われている携帯電話というものの存在を思い出した。
どうにも未だ慣れぬ代物なので失念しがちなのだが、携帯電話を使えば離れていても連絡を取り合う事が可能なのである。一瞬で距離を無にして互いを繋げるちから。にんげんの作り出す文明はすごいものだ。
電子的に濾過された七代の声音と、送られた文字を思い出しながら雉明はしばし思案する。此処で待つのであれば、携帯電話で放課後の予定を訊いてからの方がいいだろうか。あまり得意でなく今でもきちんと送れているのかよく判らないのだが、メールなら。
そう思いながら雉明が支給された携帯電話を掌に取り出した、その時である。

見知らぬ鴉乃杜学園の生徒たち数名が、雉明の方を見遣りながら近付いてきたのは。





「今日は真直ぐ帰んのか?」

後ろの席からそう問い掛ける壇燈治の声音には、僅かに揶揄の色がある。
それは何も、言い掛けられた七代千馗の被害妄想ではないだろう。七代は眉を顰めた。

「真直ぐ帰るよ? 今日は図書室寄らずにな」
「へえ、珍しいな」
「うるさいな……お前も少しは字を読めよ、そんで感想文とか書いて来い。俺が採点してやるから」
「マンガの感想ならメールで送ってやってもいいけどよ」

教科書を鞄に詰める気配がまるでないらしい親友の足を、七代は容赦なく蹴りつけた。蹴られた壇は楽しそうに笑っている。蹴られて楽しいとは全く可笑しな男だ。七代は憤慨しながら鞄を閉めた。

「ま、漫画の感想でもいいけどな、一冊につき原稿用紙に換算して少なくとも五枚以上。雑誌なら仕方ねえから一本につき三枚以上にしてやる。言っとくけど粗筋は感想じゃないからな」
「……なんでお前はたまにそう飛坂みてェなことを言うんだよ」
「お前が馬鹿だからだ」
「ひでェ言い草だな…」

幼少の頃から大人でも同年代の子供でも親しく付き合うことのなかった七代にとって、本は、こころを鎮静させるものであり有り余る時間を有効利用する為の術であり誰かに教わらずとも得られる知識の倉庫であった。
そうしてそれは現在では趣味、というかたちになり、その延長が勉強というものでもある。
未知であるという己の中の空白部分が、学ぶことによって既知へ塗り替わり、知識に充たされていく感覚はとても快い。七代はその感覚を愛していた。だから、本を読むことと同様にして学ぶことも七代にとっては趣味のひとつなのである。
しかし。
始終傍らに居る壇燈治は全くそうではないらしかった。どうやら壇だけでなく学生の大半は七代とは意を異にするようなのでそれならそれで構わない、七代とて己の趣味を他人にまで押し付けるほどの気概は持ち合わせていないのだ。けれど、壇に限って言えば、この男は最低限の学力さえ保とうとせず試験の前には決まってその分のツケが七代に廻ってくるのだから、少しくらいは壇自身も此方の荷を減らすよう努力をして欲しいものだと七代は常々考えている。

「ま、図書室寄らねェならとっとと帰ろうぜ」

これ以上余計な小言を言われぬようにと壇が七代の腕を引いたのだが。七代はうーん、と首を傾げた。

「…………なんか忘れてんな、と思ったんだけど……お前さ、今日日直じゃなかった? 日誌書いて帰れって言われてなかった? ていうか牧村センセイから直々に渡されてた課題の提出はいつだっけ?」
「うわっやべェ、そういや日誌忘れてた……!」
「課題の提出は?」
「あ、あれは…………えーと、あ、明日」
「そう。じゃあ今日は徹夜で頑張れよ」
「っていうか、お前………………、いや、まあ、有り難いからいいけどよ」

壇は何だか、苦いものと甘いものを同時に食べたような、複雑な顔をしている。
七代が壇の諸々について押さえているのは何も壇の為ばかりではない。この男が何か失態を起こすたびに傍らでいたたまれない気持ちになってしまうから。結局は自分の為なのである。だから七代には、大したことをしているつもりなど全くない。
ひとつ嘆息を落とし、それから窓の外を眺めた。

「……………………さっさと日誌、片付けなさいよ。帰るんだろ?」

机の中に仕舞い放しだったらしい日誌を渋々と取り出して、壇が鞄を一旦下ろし再び席へ着く。七代は、己の頬に壇の視線を感じてはいたが其方を見なかった。

「おう」

やや遅れて壇が返す。その返事に七代は胸中のみで少し笑い。校舎を出る前に食堂で何を奢らせようかと、壇が日誌を書き終える間、その品目についてのんびり考えておくことにした。

教室の窓から見える景色は何とはなしに明度が低くて、空の色もくすんで灰がかっている。
冬の景色だった。自分が此処を初めて訪れた時にはまだこうではなかったのだが。四季の移り変わりが七代に時間の経過を思い知らせる。
過ぎ去った日々に感傷を覚えるなどということが、まさか己の身に起こり得るとは。
作品名:或る殺人未遂事件 作家名:あや