或る殺人未遂事件
今まで深く、絆らしい絆を結んでこなかった七代は、己の変化にただ、驚くしかなかった。
グラウンドを走る運動部員たちと、ぞろぞろと校門の外へ向かって流れていく生徒たちの群れ。四階の窓から眺め遣るそれらは豆粒のようで、七代は温かい紅茶にしようかと考えながら見るともなしにそれを見ていたのだが。
「…………、あれ、」
丁度、流れ出た生徒たちがばらばらと散るあたり。つまりは校門の前に、七代は何か見知った色を見付けた気がして少し眼を凝らした。
「、どうした?」
首を捻りながら日誌と向かい合っていた壇が、七代の呟きに顔を上げる。
「いや……、ちょっと、門のところに、」
あまり素行の良くなさそうな生徒数名が固まっているのは見える。けれど七代が知りたいのはその生徒たちが相対しているものだ。外壁が邪魔をしていてなかなか見えないのだが、先刻ちらりとだけ見えたような気がした、あれが七代の勘違いでないなら。
「、」
やはり。
「お……、い、七代ッ?」
あれは、雉明零だ。
眼に映った映像が脳まで到達し、それを認識する。それと同時に七代は、眼前の窓をがらりと開け放った。
「雉明」
そうして窓枠に足を掛け、其処から一気に地面まで飛び降りる。
教室にまだ残っていた数名の生徒の悲鳴めいた声が背後から上がったが、七代の耳にまでは届かなかった。
今、七代千馗にとって最も優先すべきことは雉明の確保であって、己の身を守ることではないのである。
雉明零は困惑していた。
顔を合わせたばかりの人間からこんな風に親しげに接されるのは、初めてのことだったので。
雉明はどうしていいのか判らず、とにかく自分を囲んでいる四人の女子生徒たちを見遣った。
鴉乃杜学園の生徒であることには違いがないのだろうが、七代と同じ学年なのかどうかは判らない。みな、やや薄い色の髪をしていて、彼女たちが動くたびに鞄にぶら下げられたたくさんの飾りが音をたてながら揺れていた。
彼女たちの後ろに男子生徒がひとり。呆れたような表情で騒ぐ彼女たちを見詰めている。恐らく彼らは友人同士なのだろうとは思うのだが、それなら何故、彼女たちは彼を蔑ろにして雉明に構うのだろう。
彼女たちは初め、雉明を見るなりかわいいだとかきれいだとか、そういったことを大きな声で言って。自分のことなのだろうかと雉明が周囲を見回しているうちに囲んできたのである。
名を訊かれたから、雉明、と応えた。するとまたかわいい、といって彼女たちは笑い合った。雉明が何を言っても彼女たちは概ねそんな調子である。
雉明にはよく判らない。
こういった雰囲気の学生を確かに駅前でよく見掛けた気がしたが、眺めているのと接してみるのはまた違うのだと、雉明は初めて理解した。
彼女たちはひどく明朗で賑やかで色鮮やかで、それでいて何処かがどろりと湿っている。
七代千馗の仲間たちの中にはこんな空気を持つものが居ないので、皮膚から染み入るその感触は雉明にとってはひどく珍しく、全く未知なものである。
後ろに居る男子生徒が、痺れを切らした様子で彼女たちを促した。待ちくたびれているのだろう。
待っている人が居るのだから早く行った方がいい、雉明がそう言おうとすると、逆にその中のひとりから訊ねられた。
誰かを待っているのか、と。
ああもしかしたら、と雉明は思った。もし彼女たちが七代の知人だったのなら。七代が今何処で何をしているのか、帰路を共にする為に此処で待っていてもいいのかどうか判るのかも知れない。
だから、口にした。彼の名を。自分は七代千馗を待っているのだ、と。
しかし。雉明が七代の名を口にした途端、彼らの空気が変わった。
厳密に言えば、しんと静まり返ってしまったのである。
女子生徒たちは互いに顔を見合わせ、男子生徒は眉を顰めた。とりわけ男子生徒の表情の変化はとても顕著だった。
己の口にした名が彼らにもたらしたその化学反応の要因が、雉明には全く判らない。彼女たちがどうして口を噤んだのか。どうして彼は憎々しげな顔をするのか。そして彼らは七代千馗を、知っていたのだろうか。
雉明の知る七代千馗といえばとてもやさしい男である。仲間たちにもとても好かれている。だから同じ学校の生徒たちからもてっきり同じように慕われているものとばかり思っていたのだが。
この反応を見るに、彼らは、否、特に彼は、七代をあまり快くは思っていないのだろうか。
それは雉明にとって、なかなかに信じ難い事実である。
七代千馗だと?と、男子生徒が彼の名を繰り返した。
ひょろりとした身体つきの、何処か鋭利な男だ。声音には僅かな怒気がこもっている。そういえば寇聖高校の盗賊団員の風体に少し似ていると雉明は思った。
彼の名を繰り返し呟いた男子生徒は、雉明を取り囲む女子生徒たちを飛び越えるようにして声を投げ掛けてきた。彼の表情には侮蔑のような色が滲んでいる。
彼は一体何を、誰を侮蔑しているのだろう。眼前に居る自分なのか、それとも七代なのだろうか。
雉明がその対象について思案していると、男子生徒は雉明へもう一度確かめた。
此処で七代千馗を待っているのか?と。
それが事実であったのでとりあえず雉明は頷いてみせた。そのさまを見た男子生徒は表情に乗せた侮蔑と怒気ををそのままに、口の端を吊り上げた。
それは確かに笑みのかたちをしていたけれど、こころからの笑みでないことは明らかであった。人間の機微に未だ疎いとはいえ雉明の眼にもそれは容易に知れた。
かたちだけの笑みを顔に貼りつかせ、男子生徒が続けて口にした言葉はしかし、その表情にはひどく似つかわしくないものだった。
彼は。
彼女たちも雉明のことを気に入っているようだからこれから共に遊びに行かないか、と言ったのである。
突然の提案に雉明はやや茫然としたのだが、女子生徒たちはくすくすとさざめくように笑いながら口々に何事かを囁き合った。
やくそくしてんのにそれやぶらせるってこと?にんきあるってだけでさかうらみだよねえ、でもとられたこともあるらしいってさ、いつもいっしょにいるのがあれだしこうせいのやばいのともしりあいみたいだからなかなかけんかうれないとかすげえださくない、まああたしらはぜんぜんどうでもいいけど
彼女たちの唇からこぼれ落ちる言葉はとても速くて聞き取り辛く、単語の欠片は拾えるのだが、雉明には全く意味を解することまでは出来なかった。雉明にとっては日本語でないような響きだ。
それらが細い音になって雉明の耳を通り抜けていき、そうして雉明の中には困惑のみが残る。
どうすれば、いいのだろう。
雉明はしばしその提案について考えた。彼らは自分と、親密になろうと考えてくれているのだろうか。未だ雉明は彼らの名を知らないのだが。雉明はにんげんが好きだ。老若男女どんなにんげんであれ、とても興味深い。だから彼らが自分と親しくなりたいのだと、本当にそう思っているのだとしたらそれは雉明にとってはとても嬉しいことだった。