或る殺人未遂事件
ぽつりと、ふたりきりになった門の前で。七代は雉明の身体を抱きしめた。
擦り合った頬が冷えている。雉明は長らく此処に居たのだろうか。長らく彼らに囲まれていたのだろうか。自分は果たして遅かったのだろうか。
「、七代」
「……………………雉明が無事で、ほんとに良かった」
「無事……、?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら雉明は首を傾げている。
鬼札としてのちからの大半が失われた今でも雉明の戦闘能力は常人のそれでは決してなかったし、体術も一通りこなせるのだということは七代自身かの認定試験にて目の当たりにしてはいる。
雉明は、七代が庇護しなければならないような小さなこどもではないのだ。
己の身を守る術など充分過ぎるくらいに持ち合わせているのである。ちからを持たぬ人間たちが束になって襲い掛かろうとも恐らく相手にもならないのだろう。
けれど。
七代にとってはそういう問題ではないのである。
「七代……、おれは、何も問題無い、大丈夫だ」
抱きしめるというよりはしがみついている、といった風の七代の背に手を廻し、雉明は宥めるように撫でた。
「うん」
「危険な事は何も無かった」
「うん」
「……だから、きみがそんな顔をする必要は無いんだ」
「うん」
ぽん、ぽん、とぎごちなく雉明の掌が背で弾む。
そのやさしい感触はゆるゆると七代の精神を落ち着かせていった。何処か子守唄のように。
七代がようやく雉明を解放すると、雉明はその感触にとてもよく似た微笑を浮かべて七代を見詰めた。
「…………きみと共に、帰ろうと思って、寄ってみたんだが……きみはもう帰るところなのか?」
そう問われ。七代は自分が未だ上履きであることを思い出してしまった。
窓から飛び出したのである、靴など履き替えられる筈がない。それに鞄も教室に置いてきたままだ。
「ああ……うん、帰るところ、なんだけど、」
七代の思考能力が正常に戻り、それにつれて記憶も蘇ってくる。
そもそも自分は一体何をしているところだったのか。
「ま、見物してたにせよ、いくら何でももう日誌書き終わってる頃だろうしな…………雉明はこれから行くとこあるの?」
「、いや、特に予定はないが」
「そう、良かった」
「、」
白い掌を強く握ると、雉明が驚いたように顔を上げた。
「壇がさ、なんか奢ってくれるっていうから雉明も食堂行こ?寒かっただろ?なんかあったかいものでも飲んでから帰ろ、雉明は何にする?」
「、しかし七代、おれは」
「いいのいいの」
七代はただただ笑って。
戸惑う雉明の手を引き、いとも簡単にさっさと鴉乃杜学園の門を越えてしまった。雉明が、立ち入れぬことをあれほど憂えた境を。
「…………ああ、雉明の手が掴まれてなくて、本当に良かった」
つまらぬ理由の為に雉明が腕を掴まれてなどいたら、自分はひとを殺していたかも知れない。
七代は笑ってそう言ったのだが、微笑む表情の割に声音はひどく真剣で。雉明は果たしてそれが冗談なのか或いはまさか本気の言なのかと一瞬の間考えたのだが。
食堂のあたりにふたり分の鞄を携えた壇燈治の姿が見えたのでそれきり、そのことについて七代千馗には終ぞ訊ね返せぬまま、その後すっかりと忘れてしまった。