或る殺人未遂事件
しかし。今、雉明は胸に或る目的を抱いているのである。七代千馗に会う為に此処へ来たのだ。それを果たさずして彼らの提案を受けて、良いだろうか。七代とは待ち合わせをしているわけではないから、此処で行く先を変更してしまっても七代を困らせることにはならないのだが。
どう応えるべきなのだろう。
そう逡巡しているうちに、男子生徒の指が急かすようにして雉明の方へ伸びてきた。
腕を、掴まれる。
そう思い。不意に身を硬くしたところで雉明は、或る気配を感知した。
「、」
その気配は軽快な足音を伴いながら、すごい速度で近付いてくる。どんどん、あっと言う間に距離が詰まる。雉明のすぐ近くにまで。
それは。
「ちあき」
たかだかグラウンドを横切り、校門までの全力疾走である。
息など切れる暇がない。だから雉明の名を呼んだ七代のその声音は、全く息に霞むことなくとても明瞭に響き渡った。
その声音にびくりと身を縮めたのは、全く見覚えのない顔の男子生徒。
「…………、七代、」
眼を瞠りながら幾度か瞬きを繰り返している雉明へ、とにかく微笑んでおく。
それから七代は、雉明を取り巻いている今の状況をぐるりと眼で浚った後、視線を男子生徒の上に停止させた。コンタクトレンズを着用しているといえども視力は良い方ではなく、それに加えて七代は人の顔をあまり記憶出来ない質だったので、よくよく見てみたらもしかすれば思い出すかも知れないと思ったのだが。何度凝視し直してみてもやはり、それは知らない顔だった。知人ではない。
けれど七代の方にはそうでも向こうにとってはそうでなかったようで、見知らぬ男子生徒は七代の名を小さくこぼしていた。
それを見、七代は、少し苦い気分になった。
こうして全く見覚えのない生徒までもが自分の名を認知しているのは十中八九、鬼丸義王の所為だろう。あの男が盗賊団員と共にぞろぞろと押し掛けて、名指しなどしなければ。
当時の光景と面倒な思いをしたことまで思い出してしまい眉を顰めている七代は、己を有名にしている要因が実は鬼丸義王だけでなく他にもあるのだという事実についてあまり自覚出来ていなかった。
全く面倒臭いことをしてくれる
七代は口だけで微笑んで、雉明の腕を強く引いた。
「ごめん、俺、きみのこと覚えてないんだけどさ。なんか世話になったっけ、もしなってたんなら教えて?」
男子生徒は七代から眼を逸らし、何も答えようとしない。
壇燈治でもあるまいし。そう思いながら七代は内心盛大に溜息を吐いている。
恐らく。
この男子生徒は七代のことをあまりよく思っていないのだろう。そうして、経緯は訊ねてみないことには判り得ないことだが、丁度七代と親しい間柄の雉明を見付け、代わりに憂さ晴らしでも果たそうとしたのだろう。
それが現在この場に展開されている状況なのだろう、と七代は踏んでいた。
言い返してこようともしないこの素行不良生徒が何処までどういったことを画策していたのかは判らない。けれど。七代千馗をどうにかすることが出来ないから代わりに雉明を、というのは、七代にしてみれば見事なほど完全な悪手である。
自分にとって雉明がどういった存在なのか、それを知らないのだから仕方がないのだが、それにしてもと思う。知らぬというのは恐ろしいことだ。
七代が今発しているのは間違いなく殺気そのものであり、雉明を囲んでいた女子生徒たちは敏感にそれを感じ取ったらしく、そろりと猫のような足取りで無難に逃げていく。七代は眼の端でそれを見た。七代が照準を定めているのは男子生徒ただひとりなのである、女子生徒たちに噛みつくつもりは七代とて毛頭ない。
「…………七代、彼らは、その、一緒にあそびにいかないかと誘ってくれた、んだが」
七代に引き寄せられた雉明は、何処か申し訳なさそうな表情で言った。
「……………………ふう、ん?」
それを聞き、改めて七代が男子生徒を見据えると、女子生徒たちを伴ってさっさと踵を返そうとしている。
敵前逃亡とは。何とも気概のない。
何か突っかかってくるなり殴りかかってくるなりするのであれば、七代も容赦なく己の内に渦巻く憤怒を放出出来たのだが。相手の選んだ選択肢があまりに賢過ぎる所為で、七代の苛立ちは尚一層増してしまった。
「どうしても雉明とあそびたいんだったらさ、別にいいよ?俺も一緒に行っちゃうけど、それで良ければ」
男子生徒は顔を歪めたが、傍らの女子生徒たちは少し眼を瞠って顔を見合わせた。
女子生徒たちは間違いなく男子生徒の友人なのだろうが、しかしどうやら彼女たちは彼女たちでまた少し違った価値観に沿って動いているようだ。七代がにこりと笑ってみせると、その証拠に何人かが手を振って応えた。
「、七代も行くのか?」
「ん?まあ、俺はいいけど向こうが都合悪いみたいよ。また今度ね?」
「そうか」
七代の言葉に雉明は表情を緩め、そのおもてに淡い微笑を滲ませた。
場違いともいえるそのやわらかい笑みはしかし、七代のささくれた精神をふんわりと潤していくようで。七代は苦笑するしかなかった。
雉明は何も知らない。何も理解していない。だからこそ。こうしたつまらない事情に巻き込んではいけないのである。引き込もうとするものは誰であろうと許すつもりはなかった。
雉明の笑みを見詰めていると不意にポケットの中で携帯電話が振動し、こんな時にと七代は肩を竦めたのだが送信者を見ると壇燈治とあったので、とりあえずメールを開封してみれば。
其処にはたった一言だけ。ほどほどにしろ、とだけ、とても簡潔な文字が打ち込まれていた。
七代は思わず、携帯を手にしたまま校舎の方を振り返ってみる。見覚えのある男の陰が、先刻飛び出してきた窓のあたりに立ってどうやら此方の様子を眺めているようだった。
壇燈治は大凡の事情を察したのだろうか。あんなに遠くから。だとすれば、さすがは場数を踏んだ素行不良生徒である。
此方の憤怒を解かすような雉明零の微笑と、此方の苛立ちをやんわりと収めるような壇燈治の文面。
全く、
七代の口角が上がる。
仕方ねえから釘刺すだけにしといてやるか
「なァ、」
もうすでに数歩、七代と雉明から離れていた一団の背へ声をぶつけてやる。視線で捕えるのはその中の男子生徒のみ。
彼らが決して知り得ぬ秘法眼という名の黒い虹彩に灯っているものは。
恐らく、かの盗賊王であれば狂喜したであろう、肉を食らう獣の如き鋭利なひかり。
「きみがさ、雉明の手を掴んでなくてほんっとうに良かったよ。出来るだけ面倒なことはしたくない方だからさ。きみは幸運だった……それだけ、覚えといて?」
噴出した気を視線に乗せて伝わせると、男子生徒は小さな悲鳴を洩らした途端、走り出した。
その様子に驚いた女子生徒たちが慌てて後を追う。
口にしたことに偽りはなかった。
もし良からぬ思惑を抱くものが雉明に触れたのなら、七代は幾つか存在する箍のうち少なくともひとつは外してしまうだろう。それをすればどうなるのか、当然、重々理解した上で。
幸運だったのはあの男子生徒ばかりでなく、それは七代にとっても同じだったのかも知れない。
「雉明」