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紺碧の空 番外編【完結】

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紺碧の空 5





 始まった時と同じように、自分の方からアーサーに別れを告げた。
 通勤通学のピークを迎えたプラットフォームを一人で歩きながら、アルフレッドは驚くほど実感の薄い決別を噛み締めていた。
 今でも彼を想う気持ちに変わりはないけれど、やはりどう考えても限界だったのだ。自分との関係を続けるにあたり、世間の目を欺くような真似をし続けている人に、此方の精神の方が参ってしまった。彼の為では無く、むしろ自分が楽になりたいが為に、別れを切り出さざるを得なかった。
 ごめんね。
 君への愛よりも、世間体の重さに負けて疲弊してしまった弱い心でごめんなさい。
 今は自分を蔑む自嘲の笑みすらも沸いてこない。
(弱虫でごめんよ……アーサー)
 こんな気持ちのまま傍に居ても、きっと互いに駄目になってしまうだけだと思った。
 彼が陽の当たる場所に戻れるのならば、その切欠が生じたのならば、これを期にそちらへと引き返すべきだとも思うのだ。生まれた時から華やかな表舞台を邁進し続けてきた彼に、翳りを帯びた暗い経歴は似合わない。もしアーサーが躊躇しているようならば、此方から身を引いて解からせてやらなければいけないとも思っていた。
(どっちにしたって、昨日までの生活がずっと続くとは思っていなかったんだし)
 結婚して五年目、今年で二十九歳になるアーサーに今まで子供が恵まれなかった事自体が不思議だった。自分と付き合っているからと言って操を立てるようなキャラとも思えないし、元々女性が好きな性質だから、奥さんとの間に何も無かったとは思わない。満を持して、と言った所なのだろうか。
(君は俺なんかが独り占めしていいような人間じゃないんだ)
 それにアーサーはああ見えて案外良い父親になるのではないかと、アルフレッドは密かに思い続けていたのだ。それは自らの体験に基づいた判断であり、自分が幼かった頃の記憶を遡って思い出してみると、初対面の時分からアーサーは子供好きとは口が裂けても言えなかったけれど、話しかけた時に嫌そうな顔をされても、その柄の悪さはデフォルトなのだし、対応に至ってはいつも真摯なものだった。きっと根が真面目なのだろうと思う。長く接していればこの人は信頼に足る人物だと言う事が呼吸するような自然さで自ずと染み込んでいくのだ。
 自分は男だから彼に子供を作ってあげる事は出来なくて、そもそも愛情の分散する存在を作るだなんて事自体が冗談じゃないと思えた。自らライバルを増やすなんてどうかしていると思うのは、やっぱり自分が男だからなんだろうなと思う。女性になって血を分けた子供を産むことが出来たらまた違う感慨を持てていただろうけれど、でも自分の性別がが最初から異なっていたら、アーサーとの関係も変わっていたのだろうか。
(違う。そんなんじゃないよ)
 そもそもアーサーと出会う発端となったのは、気紛れで受けた全英の学力テストで高得点を取った事が由来していた。故郷の小さな港町でも、男だったから勉学を勤しむ事を周囲は快く応援してくれたけれど、もし女の子だったら学問は不要だと言って学校も満足に行かせて貰ったかどうかも解からない。それに同性だったから、アーサーは数年後に同じ土俵に上って来るだろうと言う才能の可能性を示唆して自分に興味を持ってくれたのだし、能力を買ってくれていたのだろうと思う。男同士だったからこそ、自分達は巡り会えたのだ。
(俺がアーサーのお嫁さんなんて、可笑しくってたまらないよ)
 自分が女性だった時の容姿を想像して、でも中々の美少女だったかもねと、漸く力ない笑みを浮かべる事が出来た。
(大丈夫、俺は一人でも生きていける)
 九歳の時に出会った一人の凛々しい海軍士官候補生の青年。
 緑の瞳とけぶるような金髪の美しい、絵本の中から抜け出て来たみたいな王子様の容姿をした、中身はとっても野蛮な海賊の彼に、一目会った瞬間から憧れた。思えば一目惚れだったのかも知れない。
 自分は九年間もの間にアーサーから貰った沢山の思い出がある。一生分以上の幸せを既に彼から貰っているから、これからはそれを糧にして生きていける。
 だから、大丈夫。大丈夫。
(哀しくなんか無いんだ)
 菊の前で泣いて、泣いて、涙が枯れたと思うくらい号泣して、もう泣かないと白み始めた窓の外の景色をぼんやりと眺めながら心に誓っていた。
 それなのに。
「…………っ、……」
 俯いた頬から絶えず雫と嗚咽を零し続け、アルフレッドは碌に前も見ずにふらふらと歩いていった。
 混雑する人垣の最中に向かってくるスーツの会社員や私服の女性等に肩をぶつけまくっては煩わしそうな顔で睨まれたが、しかしこちらが泣き顔なのを知ると、皆一様に気まずそうに眉を顰めてすぐに顔を逸らした。触らぬ神に祟り無し、とは菊の故郷の国にいた頃に覚えた言葉だ。
 この群集の真っ只中で、嫌だ、離れたくないと喚き散らして、子供のようにわんわんと泣いていたら、彼は自分を見付け出してくれるだろうか。
 性懲りも無くそんな事を考えてしまう自分に、益々自己嫌悪は募って行く。アルフレッドは溢れる涙をそのままに、濡れた頬に当たる冷たい風を受けながら、足取りも重く仕事場へと向かっていった。




 プラットフォームで長かった初恋に決着を付けたアルフレッドは、数日後に寮の共同で使用する公衆電話の前に居た。
 電話を掛けているのは海を南方に越えた隣国で、六年来になる親友が恋人と一緒に暮らしている家だった。アルフレッドも何回か遊びに行った事があるけれど、エクステリアからインテリアに至るまでシンプルな中にありながら調度品の一つ一つが豪奢で、何処か空間がゆったりと流れていくようなセンスの良い空間だった事を思い出す。住人である友人二人の性格をそのまま現しているような心の落ち着く部屋を思い出すと自然と頬が綻んだ。
 あの日、二人を見送った後に現実となった一つの事実を唇に乗せると、受話器越しに聞えてくる菊の声が、途端に緊張感のある音色に変わった。その微妙な変化を敏感に感じ取ったアルフレッドは小さくクスリと笑みを漏した。
「ごめんね。色々心配掛けさせちゃったのに」
『……本当、なのですか』
「うん、本当だよ。アーサーとはきっぱり別れたんだ」
 目の前に彼自身が居る訳では無いけれど、受話器越しの菊に向かってコクンと大きく肯いて、正直に事の顛末を告げた。
 菊だけには本当の事を伝えておきたいと思った。誕生日の晩には沢山迷惑を掛けてしまったのだし、今までアーサーの事であれこれと相談に乗って貰っていたのだし、何より付き合う切欠をくれた彼だからこそ、終焉を報告をするのは半ば以上の義務だと思っていた。