八月の観覧車
「今日は何の日だ」
呼びかけられて振り返ると、経一はリビングの椅子に逆向きにまたがり、背もたれに顎を載せて上目遣いにこちらを見ている。
「8月25日。あんたの誕生日。夜にケーキとチキン注文してある、ワインとプレゼントも買ってあるから」
「そういうんじゃなくてさあ!」
経一は子供のように足をばたばたさせた。この図体でやられるとなかなかに迫力がある。
「なによ、ケーキいらないの?」
「そうじゃなくて、もっとさ、勿体つけるとかしてよ」
「さて何の日でしょう」
「遅いよ」
「いいじゃないのよ、ちゃんと誕生日しようって言ってるんだから」
「それは嬉しいけどさあ、そういうんじゃなくて、もっと特別なことしてえの。スペッシャルな感じにしたいのよ」
special、の発音に妙な力を込めて経一は言った。
「特別ねえ」
「イベントが必要だな」
唐突に話を展開させるのは彼の得意技だ。経一はがたんと立ち上がって、タンクトップの上に例の派手な上着を羽織りかけ、いらねえ暑いや、と言って止めた。
例によって結婚しようとか入籍しようとか、そういう流れになるのかと思い、すこし辟易したけれど、続いた言葉はちょっと毛色の違ったものだった。
「デートしようぜ。観覧車乗ろう」
この町のどこからでも見える、大きな観覧車がある。昔、そこには観覧車だけではなくて遊園地があった。それこそわたしたちが小学生とか中学生とか、それくらいの頃の話だ。目新しい乗り物はなかったが、ジェットコースターもメリーゴーランドもコーヒーカップも、遊園地にあるべき一通りのものは揃っていた、らしい。わたしはとうとうそこへ行くことがなかったので詳しくはわからない。
21世紀が始まって程なく、遊園地は不況のあおりをくらって閉園に追い込まれる。そこそこ名物だった観覧車だけを残して、他の乗り物はみなどこかへ片付けられてしまった。かつて遊園地だった場所が、いまは広い公園になっている。
公園の芝生の上をわたしと経一は歩いていた。8月の後半にしては日差しがきつくなく、風のある日で、木陰を伝っていけばそれなりに心地よく歩くことができた。
「観覧車なんて、随分ベタなことしたがるのね」
「いいじゃんベタで、結局さ、王道ってのが一番いいんだよ。暴れん坊将軍とか水戸黄門とか、いつまでも続いてるだろ」
「…歳取ったってこと?」
「俺は小学生のころから好きだったよ、黄門も松平健も」
「なんでもいいわ」
「それにさ、ここ二人で来たことあったっけ」
「初めてかもしれないわね」
旧遊園地は町の中心部から外れた、海に近いところにある。距離的にはさほど離れていないが、交通の便は決してよくなかった。本数の少ないバスを乗り継いでここへ来るのも、電車に乗ってもっと名の知れた遊園地へ行くのも、時間的には大差ないかもしれない。気軽に散歩に来るようなところではなかった。
うん、スペシャルだな。経一は満足げに呟いて、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。
あの遊園地、閉まったとき、乗り物とかどうしたんでしょうね。
全部バラして運んだんだろうな、多分。
そんな大がかりな工事あったかしらね。記憶ある?
や、あんま覚えてねえな…海の方へ持ってったんじゃねえか?
わたしたちは自然と、その先について詳しく語るのをやめていた。話すうちに気がついたのだ。あのころわたしたちは、町の様子がどうだったとか、あまり気に掛けることができないような過ごし方をしていた。もっとほかの大きなことで、いつも頭を忙しくしていなければならなかったから。誰のこととは言わないけれど。
風に少しばかり潮の匂いが混じる。わたしたちは観覧車の足元に近いところまで来ていた。原色の赤や青、オレンジで塗られたゴンドラがひとつ、またひとつと地上を離れていくのが見える。平日だけあって人は少ない。これで経営やってけんのかなあ、経一が不謹慎な感想を漏らす。
二人で千円払って赤いゴンドラに乗った。バイトと思しき茶髪の青年が、ばたん、と勢いよく扉を閉めた。それから多分思い切り押すか蹴るかしたのだろう、衝撃があり、ぎいぎいと軋む音を立てて揺れながらゴンドラが上っていく。
「結構古いのね」
「昔からあるからな」
「止まったりしたらどうしよう」
経一がふざけて重心をうしろに掛けてみせる。やめて、笑えないわ、なに、高いのキライなの?そういう問題じゃなくって、言い合っていると、ふと、経一はわたしの頭の上のほうに目をやって呟いた。
「海だ」
振り返ると、遠景に水平線が輝いているのが見える。いつのまにか随分高くまで来ていた。首を戻して正面の窓を眺める。門から随分歩いてきた気がしたけれど、こうして見ると公園は思ったより広くない。手前にわずかばかり緑地帯が広がっていて、その向こう、平らな土地だから隣町までずっと一望できる。
町外れの古ぼけた観覧車という印象に反して、なかなかの景色だった。
おお、すげえな、経一はガラスに額をつけて街並みを眺める。あのへんがうちかな、あっちが商店街で、入口のあの派手な看板ちゃんと見えるよ、すげえ小さいけど、ああ、あれ駅だな、陸橋があって――
西から東へと視線をスライドさせていっていた経一が、そのときわずかに言葉を止めて、
「中学校」
ぽそりと言った。
ああ、いま、学校の屋上ってコンクリじゃねえんだな。塗装してんのか。人工芝かな。
こちらに告げるでもなく、確かめるように呟いている。
わたしたちは言葉を交わさなかった、けれど、明らかにおなじことを考えていた。
あの建物の内側、グラウンドに向いている部分の一階、渡り廊下の傍。ちょうど影になっている、あの辺り。窓が開いているのか閉まっているのか、ここからは遠すぎて見えない。向こうからこちらは見えるのだろうか。校舎の向こうに天辺が覗く程度だろうか。部活の子もいるから、夏休み中でも平日は出勤してるのだろう、時折訪れる生徒の世話をしては、いつもより静かな保健室で、書類をつけたり、退屈したりして過ごしているはずで――。
次第に小さくなっていく校舎を、いつまでも未練がましくわたしたちは見ていた。
「馬鹿ね」
口をついて出た。
あなたが、それとも、わたしたちが?
経一は窓から顔を離して、こちらを向き、
「へへ」
寂しそうに笑った。
昔から、この男は言葉を使わずに感情を表すことにとても長けていた。歳を重ねるごとに強面に拍車が掛かってきたけれど、目だけは変わらずに子犬のような目で、彼はその目を使っていくつものことをわたしに伝えてきた。そういう彼を見ていると、次第にわたしも言葉で何か伝える仕方を忘れていくのだった。
それだから、観覧車の中でキスなんてしてしまった。
「恥ずかしい」
あんまりベタで。そのことを経一に告げると、だからさ、王道がいいんだよ、とひとこと言って笑った。
呼びかけられて振り返ると、経一はリビングの椅子に逆向きにまたがり、背もたれに顎を載せて上目遣いにこちらを見ている。
「8月25日。あんたの誕生日。夜にケーキとチキン注文してある、ワインとプレゼントも買ってあるから」
「そういうんじゃなくてさあ!」
経一は子供のように足をばたばたさせた。この図体でやられるとなかなかに迫力がある。
「なによ、ケーキいらないの?」
「そうじゃなくて、もっとさ、勿体つけるとかしてよ」
「さて何の日でしょう」
「遅いよ」
「いいじゃないのよ、ちゃんと誕生日しようって言ってるんだから」
「それは嬉しいけどさあ、そういうんじゃなくて、もっと特別なことしてえの。スペッシャルな感じにしたいのよ」
special、の発音に妙な力を込めて経一は言った。
「特別ねえ」
「イベントが必要だな」
唐突に話を展開させるのは彼の得意技だ。経一はがたんと立ち上がって、タンクトップの上に例の派手な上着を羽織りかけ、いらねえ暑いや、と言って止めた。
例によって結婚しようとか入籍しようとか、そういう流れになるのかと思い、すこし辟易したけれど、続いた言葉はちょっと毛色の違ったものだった。
「デートしようぜ。観覧車乗ろう」
この町のどこからでも見える、大きな観覧車がある。昔、そこには観覧車だけではなくて遊園地があった。それこそわたしたちが小学生とか中学生とか、それくらいの頃の話だ。目新しい乗り物はなかったが、ジェットコースターもメリーゴーランドもコーヒーカップも、遊園地にあるべき一通りのものは揃っていた、らしい。わたしはとうとうそこへ行くことがなかったので詳しくはわからない。
21世紀が始まって程なく、遊園地は不況のあおりをくらって閉園に追い込まれる。そこそこ名物だった観覧車だけを残して、他の乗り物はみなどこかへ片付けられてしまった。かつて遊園地だった場所が、いまは広い公園になっている。
公園の芝生の上をわたしと経一は歩いていた。8月の後半にしては日差しがきつくなく、風のある日で、木陰を伝っていけばそれなりに心地よく歩くことができた。
「観覧車なんて、随分ベタなことしたがるのね」
「いいじゃんベタで、結局さ、王道ってのが一番いいんだよ。暴れん坊将軍とか水戸黄門とか、いつまでも続いてるだろ」
「…歳取ったってこと?」
「俺は小学生のころから好きだったよ、黄門も松平健も」
「なんでもいいわ」
「それにさ、ここ二人で来たことあったっけ」
「初めてかもしれないわね」
旧遊園地は町の中心部から外れた、海に近いところにある。距離的にはさほど離れていないが、交通の便は決してよくなかった。本数の少ないバスを乗り継いでここへ来るのも、電車に乗ってもっと名の知れた遊園地へ行くのも、時間的には大差ないかもしれない。気軽に散歩に来るようなところではなかった。
うん、スペシャルだな。経一は満足げに呟いて、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。
あの遊園地、閉まったとき、乗り物とかどうしたんでしょうね。
全部バラして運んだんだろうな、多分。
そんな大がかりな工事あったかしらね。記憶ある?
や、あんま覚えてねえな…海の方へ持ってったんじゃねえか?
わたしたちは自然と、その先について詳しく語るのをやめていた。話すうちに気がついたのだ。あのころわたしたちは、町の様子がどうだったとか、あまり気に掛けることができないような過ごし方をしていた。もっとほかの大きなことで、いつも頭を忙しくしていなければならなかったから。誰のこととは言わないけれど。
風に少しばかり潮の匂いが混じる。わたしたちは観覧車の足元に近いところまで来ていた。原色の赤や青、オレンジで塗られたゴンドラがひとつ、またひとつと地上を離れていくのが見える。平日だけあって人は少ない。これで経営やってけんのかなあ、経一が不謹慎な感想を漏らす。
二人で千円払って赤いゴンドラに乗った。バイトと思しき茶髪の青年が、ばたん、と勢いよく扉を閉めた。それから多分思い切り押すか蹴るかしたのだろう、衝撃があり、ぎいぎいと軋む音を立てて揺れながらゴンドラが上っていく。
「結構古いのね」
「昔からあるからな」
「止まったりしたらどうしよう」
経一がふざけて重心をうしろに掛けてみせる。やめて、笑えないわ、なに、高いのキライなの?そういう問題じゃなくって、言い合っていると、ふと、経一はわたしの頭の上のほうに目をやって呟いた。
「海だ」
振り返ると、遠景に水平線が輝いているのが見える。いつのまにか随分高くまで来ていた。首を戻して正面の窓を眺める。門から随分歩いてきた気がしたけれど、こうして見ると公園は思ったより広くない。手前にわずかばかり緑地帯が広がっていて、その向こう、平らな土地だから隣町までずっと一望できる。
町外れの古ぼけた観覧車という印象に反して、なかなかの景色だった。
おお、すげえな、経一はガラスに額をつけて街並みを眺める。あのへんがうちかな、あっちが商店街で、入口のあの派手な看板ちゃんと見えるよ、すげえ小さいけど、ああ、あれ駅だな、陸橋があって――
西から東へと視線をスライドさせていっていた経一が、そのときわずかに言葉を止めて、
「中学校」
ぽそりと言った。
ああ、いま、学校の屋上ってコンクリじゃねえんだな。塗装してんのか。人工芝かな。
こちらに告げるでもなく、確かめるように呟いている。
わたしたちは言葉を交わさなかった、けれど、明らかにおなじことを考えていた。
あの建物の内側、グラウンドに向いている部分の一階、渡り廊下の傍。ちょうど影になっている、あの辺り。窓が開いているのか閉まっているのか、ここからは遠すぎて見えない。向こうからこちらは見えるのだろうか。校舎の向こうに天辺が覗く程度だろうか。部活の子もいるから、夏休み中でも平日は出勤してるのだろう、時折訪れる生徒の世話をしては、いつもより静かな保健室で、書類をつけたり、退屈したりして過ごしているはずで――。
次第に小さくなっていく校舎を、いつまでも未練がましくわたしたちは見ていた。
「馬鹿ね」
口をついて出た。
あなたが、それとも、わたしたちが?
経一は窓から顔を離して、こちらを向き、
「へへ」
寂しそうに笑った。
昔から、この男は言葉を使わずに感情を表すことにとても長けていた。歳を重ねるごとに強面に拍車が掛かってきたけれど、目だけは変わらずに子犬のような目で、彼はその目を使っていくつものことをわたしに伝えてきた。そういう彼を見ていると、次第にわたしも言葉で何か伝える仕方を忘れていくのだった。
それだから、観覧車の中でキスなんてしてしまった。
「恥ずかしい」
あんまりベタで。そのことを経一に告げると、だからさ、王道がいいんだよ、とひとこと言って笑った。