チャイルド
操はときおり、急に火がついたように暴れることがあった。
前触れはない。普段の操はずっと黙っていて、様子にもほとんど変化がないので、いつ、何を考えているのか、知ろうとすることがとても難しい。
操はいつも少し怒ったような顔をしていた。鈍と経一の家へ来てからしばらく経つが、その間、声を発したことはほとんどないと言ってよかった。単に意味のある言葉を口にしなかったというだけではない。癇癪を起こすときでさえそうだった。多くの子供がするように、泣き叫んだりわあとかぎゃあとか言うのではなくて、
「う、……ぐ、………っ、」
顔をゆがめて、くぐもった音を発しながら、手当たり次第にそこらのものを投げたり、細い手足でテーブルや椅子をなぐったり、蹴ったりした。
それでも、操はもうただの小さな子供の操だったので、暴れると言ってもたかが知れていた。以前、逸人を叩きのめしたときのあれが打ち上げ花火だとしたら、いまの操の暴れ方は線香花火みたいなものだ。操の癇癪は経一の両腕の中にきれいに収まり、鎮火された。経一は動物的な勘によって操を制することにとても長けていた。彼が操に手を挙げることは決してなかった。大きな体躯で行く手を塞ぎ、それから思う存分殴らせてやったとしても、操の力では経一の体にひとつの傷もつけることできない。やがて勢いを失ってきた癇癪を終わらせるのには、腕一つと強い目と、簡潔な怒声、それだけで十分だった。
「つらいんだな、きっと」
経一は鈍といるとき、操についてそんなふうに言っていたし、食事でも入浴でも決して手間を惜しむことなく操を世話していた。暴れたときを別にすれば、操の傍ではいつも笑っていた。ほんとうに、目に入れても痛くないという様子だった。一方で経一は操の力を決然と自分の力によって抑えた。それは多分、彼の持っている正義とか、生きてきたルール、そういうものだったのだろう。
だから事件は経一のいないところで起こった。
操が来てからの経一は自然とギャンブルの回数も減っていた――単純に暇がなかった――なので、その時経一がいなかったのは、遊びに行っていた訳ではない。煙草を吸いに数分ばかり外へ出ていたのだ。鈍はその日、仕事と予約の電話が続いていて、なかなか手が離せなかった。このところ操はかなり落ち着いてきていて、しかもちょうどリビングで昼寝していた時だったので、二人とも心配していなかった――というより、なにか起こる可能性が頭になかった。
がちゃん。
客を見送って、仕事がひと段落ついたその時に、鈍は物音を耳にする。すぐに操のことが頭に浮かんでリビングへ走った。
扉を開けると、操が目を丸くし、体を強張らせて茫然と立っていた。足元には白い陶器が転がっている。鈍の愛用のアロマポットが、きれいにふたつに割れていた。
ああいけない、棚の上に置きっぱなしにしちゃってたんだ、瞬間的に鈍は思う。破片が散るような素材ではなかったのが幸いだった。
「操、怪我は――」
怪我はない、と言おうとして鈍が手を伸ばしたその時だった。触れようとした手に鋭い痛みが走った。
「いった」
鈍が思わず身をすくめた次の瞬間、操は鈍の傍をすり抜けて鉄砲玉のように駆け出した。
「操!」
慌ててリビングの外へ出る。誰の才能を借りなくとも操はすばしこい子だった。鈍が階段を掛け降りるときにはもう勝手口から出ようとしていて、ちょうど戻ってきた経一と勢いよく肩をぶつけ、それでも躊躇わずにまっすぐ外へ駆けていった。おい操、どうした、言って手を伸ばした経一の指先も、わずかに操の髪をかすめただけだった。
小さな操は勝手口を出て、犬や猫の通るような、フェンスのわずかな隙間の向こうに姿を消した。こうなるとさすがの経一もお手上げだった。
「何があったの――」
言いかけて、経一は鈍の右手に目を留め、表情を曇らせた。
白い指に大きく、血のにじんだ噛み跡が残っていた。
決して物騒な町ではないし、こういう時は少し一人にしてやったほうがいい気もする。経一は言い、鈍も同意したものの、やはり万一の場合の心配はあった。相談した結果、経一がバイクで操を探しに行き、操が自分から帰って来た時のために、鈍は家で待つことになった。大事をとって逸人にも連絡した。中学校はちょうど放課後の時間だったので、生徒たちが近所を探してみる、と申し出てくれたという。子供でなければ分からない場所もあるだろうから、有難いことだった。
「あんたが迷子にならないでね」
「気をつける」
バイクにまたがる経一に鈍は声を掛けた。こういう時だからか、経一の自信は多少控え目だ。
「…でもさ、あいつ、自分で戻ってくると思うよ」
経一はそう呟いてヘルメットを被り、エンジンを吹かして、鈍に手だけで挨拶して走って行った。
ここしばらく操を近くで見ていた彼なりに、何か感じるところがあるのだろう。鈍はバイクの後ろ姿をわずかに見送って、家の中へ戻った。
果たして、経一の言ったとおりにことは運んだ。
40分ほど過ぎたころだろうか、家の裏の方からかつん、かつんと、微かな音がするのに鈍は気がついた。
勝手口を開けると、やはり操はそこにいた。コンクリートのたたきに腰をかけて、体をまるめてうずくまり、どこからか拾ってきた木の枝でときおり小石を打っていた。
「操」
鈍は膝をついて、反応のない小さな背中をうしろから眺めた。操は石のように身じろぎひとつせず、静かだった。
ふいに操は、手に持っていた木の枝で、ゆっくりと地面に何か書き始めた。鈍はうずくまった操の頭越しにそれを読むことができた。
『いい子にします』
操の字は斜めに歪んで、不揃いで、音のない呻きのような姿をしていた。
『うちにおいてください』
「あのね」
操は俯いたまま、自分で自分の書いた字を見ていた。鈍が立ち上がって、自分の前の方へやってきたのがわかった。制裁を予感して操は目を閉じた。
「あんたがいい子じゃなくったってうちにはおきます」
操は顔を上げた。しゃがんで頬杖をついた鈍の顔がそこにあった。顔を支える手に大きな絆創膏が貼られている。
「でも、だれかに痛いことをしたときは、ちゃんと言って」
操はおそるおそる手を伸ばして、鈍の手に触れた。鈍は頬杖を外して右手を操にゆだねた。
今度は決して痛いことのない接触だった。両手に収めた白い手を見つめて、操は言った。
「ごめんなさい」
この家で操が言葉を発したのは、たぶんこれが最初だった。父親に呼びかける声以外の操の声を鈍は初めてまともに聴いた。その声は枯れて、掠れていて、ちっとも普通の子供の声のようではなかったけれど、それでも確かに操の声だった。
前触れはない。普段の操はずっと黙っていて、様子にもほとんど変化がないので、いつ、何を考えているのか、知ろうとすることがとても難しい。
操はいつも少し怒ったような顔をしていた。鈍と経一の家へ来てからしばらく経つが、その間、声を発したことはほとんどないと言ってよかった。単に意味のある言葉を口にしなかったというだけではない。癇癪を起こすときでさえそうだった。多くの子供がするように、泣き叫んだりわあとかぎゃあとか言うのではなくて、
「う、……ぐ、………っ、」
顔をゆがめて、くぐもった音を発しながら、手当たり次第にそこらのものを投げたり、細い手足でテーブルや椅子をなぐったり、蹴ったりした。
それでも、操はもうただの小さな子供の操だったので、暴れると言ってもたかが知れていた。以前、逸人を叩きのめしたときのあれが打ち上げ花火だとしたら、いまの操の暴れ方は線香花火みたいなものだ。操の癇癪は経一の両腕の中にきれいに収まり、鎮火された。経一は動物的な勘によって操を制することにとても長けていた。彼が操に手を挙げることは決してなかった。大きな体躯で行く手を塞ぎ、それから思う存分殴らせてやったとしても、操の力では経一の体にひとつの傷もつけることできない。やがて勢いを失ってきた癇癪を終わらせるのには、腕一つと強い目と、簡潔な怒声、それだけで十分だった。
「つらいんだな、きっと」
経一は鈍といるとき、操についてそんなふうに言っていたし、食事でも入浴でも決して手間を惜しむことなく操を世話していた。暴れたときを別にすれば、操の傍ではいつも笑っていた。ほんとうに、目に入れても痛くないという様子だった。一方で経一は操の力を決然と自分の力によって抑えた。それは多分、彼の持っている正義とか、生きてきたルール、そういうものだったのだろう。
だから事件は経一のいないところで起こった。
操が来てからの経一は自然とギャンブルの回数も減っていた――単純に暇がなかった――なので、その時経一がいなかったのは、遊びに行っていた訳ではない。煙草を吸いに数分ばかり外へ出ていたのだ。鈍はその日、仕事と予約の電話が続いていて、なかなか手が離せなかった。このところ操はかなり落ち着いてきていて、しかもちょうどリビングで昼寝していた時だったので、二人とも心配していなかった――というより、なにか起こる可能性が頭になかった。
がちゃん。
客を見送って、仕事がひと段落ついたその時に、鈍は物音を耳にする。すぐに操のことが頭に浮かんでリビングへ走った。
扉を開けると、操が目を丸くし、体を強張らせて茫然と立っていた。足元には白い陶器が転がっている。鈍の愛用のアロマポットが、きれいにふたつに割れていた。
ああいけない、棚の上に置きっぱなしにしちゃってたんだ、瞬間的に鈍は思う。破片が散るような素材ではなかったのが幸いだった。
「操、怪我は――」
怪我はない、と言おうとして鈍が手を伸ばしたその時だった。触れようとした手に鋭い痛みが走った。
「いった」
鈍が思わず身をすくめた次の瞬間、操は鈍の傍をすり抜けて鉄砲玉のように駆け出した。
「操!」
慌ててリビングの外へ出る。誰の才能を借りなくとも操はすばしこい子だった。鈍が階段を掛け降りるときにはもう勝手口から出ようとしていて、ちょうど戻ってきた経一と勢いよく肩をぶつけ、それでも躊躇わずにまっすぐ外へ駆けていった。おい操、どうした、言って手を伸ばした経一の指先も、わずかに操の髪をかすめただけだった。
小さな操は勝手口を出て、犬や猫の通るような、フェンスのわずかな隙間の向こうに姿を消した。こうなるとさすがの経一もお手上げだった。
「何があったの――」
言いかけて、経一は鈍の右手に目を留め、表情を曇らせた。
白い指に大きく、血のにじんだ噛み跡が残っていた。
決して物騒な町ではないし、こういう時は少し一人にしてやったほうがいい気もする。経一は言い、鈍も同意したものの、やはり万一の場合の心配はあった。相談した結果、経一がバイクで操を探しに行き、操が自分から帰って来た時のために、鈍は家で待つことになった。大事をとって逸人にも連絡した。中学校はちょうど放課後の時間だったので、生徒たちが近所を探してみる、と申し出てくれたという。子供でなければ分からない場所もあるだろうから、有難いことだった。
「あんたが迷子にならないでね」
「気をつける」
バイクにまたがる経一に鈍は声を掛けた。こういう時だからか、経一の自信は多少控え目だ。
「…でもさ、あいつ、自分で戻ってくると思うよ」
経一はそう呟いてヘルメットを被り、エンジンを吹かして、鈍に手だけで挨拶して走って行った。
ここしばらく操を近くで見ていた彼なりに、何か感じるところがあるのだろう。鈍はバイクの後ろ姿をわずかに見送って、家の中へ戻った。
果たして、経一の言ったとおりにことは運んだ。
40分ほど過ぎたころだろうか、家の裏の方からかつん、かつんと、微かな音がするのに鈍は気がついた。
勝手口を開けると、やはり操はそこにいた。コンクリートのたたきに腰をかけて、体をまるめてうずくまり、どこからか拾ってきた木の枝でときおり小石を打っていた。
「操」
鈍は膝をついて、反応のない小さな背中をうしろから眺めた。操は石のように身じろぎひとつせず、静かだった。
ふいに操は、手に持っていた木の枝で、ゆっくりと地面に何か書き始めた。鈍はうずくまった操の頭越しにそれを読むことができた。
『いい子にします』
操の字は斜めに歪んで、不揃いで、音のない呻きのような姿をしていた。
『うちにおいてください』
「あのね」
操は俯いたまま、自分で自分の書いた字を見ていた。鈍が立ち上がって、自分の前の方へやってきたのがわかった。制裁を予感して操は目を閉じた。
「あんたがいい子じゃなくったってうちにはおきます」
操は顔を上げた。しゃがんで頬杖をついた鈍の顔がそこにあった。顔を支える手に大きな絆創膏が貼られている。
「でも、だれかに痛いことをしたときは、ちゃんと言って」
操はおそるおそる手を伸ばして、鈍の手に触れた。鈍は頬杖を外して右手を操にゆだねた。
今度は決して痛いことのない接触だった。両手に収めた白い手を見つめて、操は言った。
「ごめんなさい」
この家で操が言葉を発したのは、たぶんこれが最初だった。父親に呼びかける声以外の操の声を鈍は初めてまともに聴いた。その声は枯れて、掠れていて、ちっとも普通の子供の声のようではなかったけれど、それでも確かに操の声だった。