チャイルド
操は目の前の鈍が微笑んでいるのを見た。それでも操は微笑むことができなかった。操はいつも、ただ少し怒ったような顔をすることしかできなかった。ほんとうは操はいつも怒っていたわけではないのだ。怒りや悲しみ、悔しさやさみしさや、申し訳ない気持ち、そのほかのいろいろな感情が、きちんとした形をとることのできないまま操の心に湧き上がってきて、操はそれを顔の上でうまく分けてやることができないのだ。操の顔はだから、ほとんどいつもただ一種類の、少し怒ったような顔になった。かわいげのない子だと父親に言われ、それでも、操にはどうしたらよいのか見当もつかなかった。
すこしも分化していかない感情をのせた操の顔を、鈍の手はまるごと包んで撫でた。
鈍は経一と逸人に手早く連絡を済ませた。ふたりともほんとうに安堵して、喜んでいた。
冷たい麦茶を入れてやると、操は口をつけずに暫くグラスを眺めていて、それからぽつりと呟いた。
「…麦茶」
「うん」
「おとうさんにつくってあげた」
操は小さな声で早口に喋った。言葉を無理矢理に押し込めているようだった。なぜだか操は、すこしびくびくして、鈍の顔色を伺っているように見えた。鈍がなんでもないような顔をしているのを見て、操は瞬きをしながら、さっきよりももっと小さな声で言った。
「おとうさんのこと」
「うん」
「言ってもいいですか」
「いけないと思ったの?」
操はじっと体を硬くして、グラスの水面から視線を動かさずにいた。
「いけないと思った」
操は息を吐ききるように言って、少しだけ視線を上げた。鈍が目を細めていた。
「いけないことないわ」
それで操は少しずつ話し出した。操が話せることはあまり多くなく、断片的でおまけに時系列も飛んでいて、話だけでは父親の像がうまく姿を結んでこないような、そういう話だった。それでも操は、ぽろぽろと言葉を零すように、話すことを決してやめなかった。たばこ、おとうさんたばこ吸ってた。たばこ買いに行った。なぐったけどいつもはなぐらない。難しい本読んでて、将棋の、「つめしょうぎ」、あと、お魚が好き。お魚はきれいに食べなさいって言われた。あと野球見るのが好き。自分ではやらない。野球、難しくてわからないけど、おとうさんと見るのが好き。おとうさんがたのしそうだから。好き。
そのうち、言葉と一緒に、涙と鼻水もぽろぽろ零れだしたので、鈍が拭ってやった。操が鈍の手からハンカチを取って、自分で拭き始めたので、鈍は操の頭を撫でてやった。なんども撫でてやった。それでも操は、堰が壊れたように、言葉と涙を零すのを止めなかった。
外はもう日が暮れようとしているのだった。やがて、家の表にバイクの止まる音を、操は聴いた。