みずがねに泳ぐ
期待するな、と言った雷光は、けれど天邪鬼にも常に劣らぬ役割をきっちり果たした。ただ、いつもと間合いが変わった所為か、珍しく下手に浴びてしまったらしい血をざばざばと夜も更けた公園の水飲み場で洗っている。
「木刀だけじゃなかったのかよ」
「それでどうして人が斬れますか? 任務になりませんよ」
「だからそういうのは先に言えっつの」
「先輩ならお気付きかと思っていましたもので」
いけしゃあしゃあと。
木刀の他にナイフを6本も持っていた癖に、期待するなと告げたあれは、嫌がらせか何かのつもりだろうか。
なんだかげんなりとして、雪見は背後のフェンスに深く寄りかかった。だだっ広い公園の、草野球場として整備された部分で、バッターボックス裏のフェンスはかしゃん、と軽く背を押し返してくる。たかが金網の弾力がこの上なく優しく感じるのは何故だろう。
本当に必要があったのかどうか知らないが、雷光は頭から腰まで水を浴びていた。水分を失って固まった血は落ちにくい。皮膚の細かな凹みや服の折り目にこびりついている錆色をごしごしと擦る姿が、水場のすぐ上から落とされた光の輪のなかに浮かび上がっていた。濡れた髪で顔が隠れ、どちらかと言うと青白い肌に血を浴びた後輩の画はちょっとしたホラーだ、と思いつつ雪見は煙草に火を点ける。あーでも、髪の色で全部台無しじゃないか? ならポップな妖怪というところか? ――何だそれ。
ぷるぷる頭を振って、雷光は体を起こした。握り潰すように、ぐ、と絞った髪から、うすく色の付いた水がぼたぼたと流れ出す。髪からそのまま色が溶け出したかに見える雫に、雪見は雷光が髪の色に桃色を選んだ理由を邪推しては、相当な嫌悪感と共に打ち消した。
「雪見先輩」
光の輪から外れた雷光が、顔だけでなく声もすっと暗闇に沈めて呼び掛けた。雪見もまた馬鹿な物思いを追い遣る。薄く視界を曇らせた紫煙の居場所を奪うように、夜気と共に冷たい視線が雪見の睫毛を打った。
「なに」
真実、あれは、嫌がらせでは無かったのだろう。
期待しないでください、と、それ自体気のなさそうに告げていた雷光の投げやりな目線は、自分の指先へ向いていた。どこまでいったって、逃れられるものではないと知っているだろうに、ああ。全く。
それはただの、許されたいごっこ、だ。
「任務前に私が言ったこと、憶えてますか?」
「……『コーヒーのオレンジジュース割りは飽きましたか』?」
「ふふ」
先輩はお優しいですね、そう目で冷ややかに笑いながら、雷光は腕からリストバンドを外した。ぐちゅり、と粘度を持つ水っぽい音が耳につく。内側に仕込みのあるそれは、使われなかった細い苦無をからんからんと砂混じりのコンクリート上に吐き出したが、雷光は気にする素振りもなく水を吸ったリストバンドを絞ってまた、薄桃色の水滴を落とす。
「私は、先輩のそういう、選択を迫るようでいて実際は跡も残さない干渉の仕方が、常々、貴方らしからぬ器用さのように思います。……使わさせていただく分には、有り難いことですが」
「ソーデスカ」
「他人だから、甘えが出てしまうんでしょうか」
「さぁな」
そうじゃねえの、と同じ意味の、さぁな、だった。
質問も答えもてんで薄っぺらい。利用するだとか、他人だとか、そういう普通の人間ならば免罪符代わりに自ら傷を晒す為の物言いを、許されたいごっこをしている人間の口から聞かされる滑稽さといったらない。
大体、これ自体、雷光の甘えだ。雪見が相手をすると高を括った上での自分虐めが、甘えでなくて何だというのだろう。
あーあ、と雪見は煙草を踏み消して、今まさに目の前から奪われていくプライベートにさよならを送った。が。
「じゃあ、他人じゃなければ善いのでしょうね」
よいしょ、と、水と砂にまみれた数本の苦無を地面から拾い上げ、その一本をぷすりと軽く手のひらに突き立てた雷光の姿を認めるや否や、かっ攫われたプライベートを奪い返して走って逃げ出したい気分になった。
「一応聞く。何してんだ」
「言ったでしょう? 私は貴方に甘えてしまいます。だから他人じゃなくなろうと」
「意味分かんねーよ!」
「いいから先輩もほら、手、出して下さい」
「は!?」
「他人でなければ、身内です」
「だから」
「きょうだいの成り方、ご存じありませんか? 血を混ぜるんです」
「……、……、……、お前、いい加減にしろよ」
煙草を潰しておいてよかった。吸っていたら確実に変な所に煙が入って咳込んでいた。
「私は至って本気です」
「尚悪い」
「身内にならば私は厳しくできますよ」
「知らねえよ」
「其れとも」
すたすたと、雷光が雪見の立つフェンスに寄ってくる。
俺の何が悪かったんだ、と自問すれば、「……それで?」と聞いてやったあれが間違いの始まりなんだろう、と早くも思考を放棄し始めた脳の一部が冷静に雪見に意見した。知ってるさ、ああそうだとも。雪見はそれを恨めしくあしらう。動ける気がしなかったのだ。
真っ直ぐ向かってくる雷光の、口調に反して酷薄な視線が、昔に自分を籠絡しようとしていた青いそれと、違う。たったそれだけのことが、決定的に雪見をフェンスに縛り付けていた。
「先輩は私と、他人のままでいることをお望みですか」
雷光は、きっと心底、どうでもよくなってしまったのだろう。自分の欲望を他人のそれと巧妙にすり替えた上で我が志だと嘯くことにすら、疲れたのだろう。何故なら雷光は雪見をちっとも見ていない。虚ろにふらつきながら不器用な本心を露呈するやり方はもう捨ててしまったらしい。明け透けなまでにどこまでも、雪見を利用している。その可否に一切の期待をせずに。
それなのに、雷光の言葉だけを聞けば、かなり熱っぽい告白をされているのだと思うと雪見はその不毛さに気が遠くなりそうだった。
「お前と? 身内になんてなってやるかよ。寒気がする」
茶番を終わらせるべく、雷光の欲しがった言葉を嘲笑に混ぜて浴びせると、雷光もまた笑みの質を変えた。
「私は容赦なく甘えますよ」
「……はいはい」
まあ、不毛さが何処に由来するのか、分かってはいる。いるけれど、の「けれど」に、雪見はあらゆる不条理さを詰め込んで、その先を言葉にしないままにした。それはとても忌々しく、面映ゆく、思わず天を仰ぎたくなるような愚かしさを孕んだ諦観だったが、自分からプライベートを蹴り飛ばしている手前、忌々しさは愚問にしかならないこともまた理解している雪見は、もう何もかもをハッと笑って、フェンスから体を起こした。