嘘吐きラバー
昼が過ぎ、夜になっても千景は帰って来なかった。幾ら携帯に連絡しても繋がらず、あのナイフの男に何かされたんじゃないかと不安が襲い、家の中を何度も何度も何度もぐるぐると廻る。念の為、カレーも作っておいたのだが、食べている場合じゃない、食べるとしてもせめて千景の無事を確認してからと思っていた俺は、日付を越えそうになってもじっと待ち続けた。俺に出来る事なんて、たかが知れていたから。
「……!」
うとうとしかけた俺は扉が開く音で我に帰る。飛び上がるように玄関に向かうと、満身創痍と言っても良い程に疲弊した顔の千景が力なく片手を挙げた。
「千景!」
「ああ……無事だったか。良かった……」
「お前がそんなんでっ……! くそ、なんで……本当に、俺は!」
秒針の音を数え切れないくらい数えた俺は、孤独が怖くて思い切り千景に抱き付いた。千景はそれに心底驚いたらしく、かっちりと身体が固まったが無視し、喉の奥から枯れた声を漏らした。
「心配したんだぞっ……! 馬鹿野郎、馬鹿野郎」
「っ……静雄」
疲れ切っていたはずなのに、持ち上がりそうに無かった腕を、千景は俺の背中に回して強く抱き締める。不安だった、このまま千景が帰ってこなかったら、と。得体の知れないこの場所で、何も知らないまま、俺を知る人を失うのは堪らなく怖かった。
千景はそのまま俺に深く口付け、俺は玄関の床に背を打った。ぼんやりと千景のキスを受け入れていたが、その手が服の中に入ってきたのを感じて身体を震わせる。俺も馬鹿じゃない。千景が何をしたいのか一瞬で察する。
「ち……ち、かげ……!」
「静雄……静雄」
千景の指先が、俺の服のボタンを外す。怯えた俺に千景はキスを落としてくるが、尋常じゃない恐怖に、千景が俺の鎖骨辺りに唇を触れさせた時、思わず突き飛ばしてしまった。乱れた服の前を掴んで肩で息をする俺を見て、暗がりでも判るほど千景は哀しそうな笑みを浮かべた。小さく呟かれた声は、下手をすれば聞き逃してしまいそう。
「ごめん……ちょっと、……カッとなっちまった」
「ち、あ……ご、ごめ……吃驚、して……」
「良いんだ。俺が悪かったし。今日は疲れたから、このまま寝るな」
半分、俺を避けるように脇をすり抜けて千景は二階へ昇って行った。取り残された俺は少しずつ恐怖が引いていくのを感じながら、身を委ねる事が出来なかった自分を何故か嫌悪した。抵抗があるのは仕方がないことじゃないか、という言葉は今は忘れていて。
暫くしてから、今日の事は明日改めて聞こうと、既に日付が変わっている時に思い、身体を無理矢理起こして立つ。そこで自分が予想以上に震えている事に気付き、情けなさから切なくなる。そしてそこで、ポケットからバイブ音がして携帯を出すと、知らない番号が並んでいた。てっきり例の大量着信の男からかと思った俺は虚を突かれ、特に何も考えずに出てしまった。
「……? もしもし」
『シズ、ちゃん?』
余りの驚きに俺は文字通りぎょっとしてしまった。大量着信ではなく千景と殺し合いのような喧嘩をしていた男の声だ。動揺を隠せず声が発せない俺に対し、男は昼間の激情が嘘だったような落ち着いた声で言った。
『俺の番号だったら出てくれないと思ったからね。深夜にごめん』
「あ……いや、そんな事は……」
完全に文句を言うタイミングを失った俺はもごもごとそう言えば、受話器越しの男は何かを思案するように、ふと黙る。その真意が判らずに同じように言葉を失う俺に、その男はゆっくりと語りかけた。
『シズちゃんさ……記憶喪失になったってマジな話だったの?』
「らしい……あの、俺からも聞きたい事が山ほどっ」
てっきり千景から俺の事を聞いたのかと思ったが、男は俺を制すように少しだけ声を大きくした。
『仕事で東京をひと月も離れてたから……新宿に戻ってから、可笑しな噂を聞いて。君がある日、突然、誰にも何も言わず失踪したって。新羅もドタチンも田中さんすら居場所を知らなかった』
「しん……どた?」
『ああ、その三人とも俺らの知り合いだよ、安心して。それで、すぐに調べたら、金髪の男が病院に運ばれて、特に異常は見られなかったから、別の男が引き取りに来た……ってね。滑稽な話だと思って信じてなかったんだけど……シズちゃんが演技なんか出来る訳ないからね。ちなみに六条からは何も聞いてないよ、全部俺が自分で調べた事』
口ぶりから、やはりこの男は俺をよく知っているらしい。言葉がすんなりと俺の耳に入ってきて、色んな事を聞きたい俺は千景に刃物を向けた男への不信感や怒りを忘れた。
「えっと……よく判らねえんだけど、気付いたら病院に居て……付き添ってくれてたのが、千景だった。偶々、埼玉から遊びに来てたって。俺は中学以前までの事しか覚えてねえけど、あんたは、……言い方変だけど、俺の友達、か?」
『……違うよ』
「違う? じゃあなんだ? あと、なんか千景とも知り合いみたいな感じだったけど……あ、千景を間に挟んだ友達の友達、みたいな?」
『もっと違う、かな』
はっきりと、しかし何処か思わせぶりな言葉。今まであれだけぺらぺら喋っていたのに、俺は携帯を耳に押し当てながら思案する。はっきり、かつ遠回し。何に気付いて欲しいのだろうと思い、とりあえず少し前に疑問に思った話題を口にする。
「あのさ……めっちゃ電話してきたのってあんたか? えーと、おりはら……なんだったか」
『臨也。折原、臨也』
「あんたは何で埼玉に来たんだ? その……旅行に来たとか友達に会いに来たって感じじゃなかったけど……」
そう言うと、耳にはっきりと溜め息が聞こえて来た。
『何で、って。……そうだね、単純なシズちゃんには判りやすくストレートな言葉の方が良いか』
「何言って……」
『君は千景君に騙されてるんだよ』
突発的に投げかけられた言葉を呑みこむのには、自分では気付けないほど長い時間がかかった。
折原は俺が何か言うのを待っているらしく、息を潜めて無言を貫く。現実味の無い台詞がぐるぐると俺の中を回った。
「……なん、え? どういう事だ?」
『死ぬほどそのままの意味だよ。彼は、君が覚えていない事を良い事に、ある事ない事……まあ大体、ない事を、君に吹き込んだ』
「そんな、訳」
『無いって言い切れるの? 君には記憶が無いのに?』
折原の何処か小馬鹿にしたような声音に苛立つ事は無かった。ただ焦りはあった。今まで、ひと月という長く、短い時間を過ごしたが千景は人を騙せるような人間じゃない。何よりあいつは本気で俺の事が好きだ。一体、何処をどう騙されているのかが理解出来ない。
まるで俺は折原を試すように、深く息を吸ってから、こう聞いた。
「……なんの為に? 千景は俺に、嘘を吐く?」
その言葉に、折原は本当に一瞬だけ迷うような声を漏らしたが、すぐに、凛とした綺麗な声が俺の鼓膜を引き裂く。
『君を手に入れたいから。君が、……あの子は欲しいんだよ』
「意味が……」
余りの美しさに吐き気を覚えて視覚を閉ざす。でも聴覚は何処までも残酷に正常で、怖くなった。
『シズちゃんと千景君はね、付き合ってなんかいないんだ』