嘘吐きラバー
男は息一つ乱さず、透き通るようで、よく通る声で呟く。この雑踏の中でも俺の耳にすんなり入ってきた。特別声が大きい訳でもないのに、抵抗ひとつせず、はっきりと。
「……?」
とはいえ、俺はこの男を全く知らない。千景の知り合いだろうかと、斜め後ろに居た連れに振り返ろうとしたが、その前に黒髪の男は先ほどよりも声を張り上げた。この微妙な距離感で言うには、些か場違いな程に冷たく静かな音で。
「シズちゃんさ……なんでその餓鬼と一緒なの?」
「っ、……?」
「俺がずっと連絡しなかったの拗ねてる訳? ちょっと焦らしただけなのに。だからってさあー、電話全部無視する事ないじゃない。それだけならまだ赦してあげるけどさ……。どうしてそいつと一緒に俺から逃げたの?」
何を言われているのか半分も理解出来なかった。「シズちゃん」、とは俺の事だろうか。俺の名前は平和島静雄だから、あながち見当違いなあだ名という訳ではないが、こんな親しげに話しかける友人など居たのか、と若干自分に驚いた。混乱する頭で情報を整理していると、何も言わない俺に苛立ったのか、男は美麗な顔を歪ませ台無しにする。
「とりあえずそいつから離れなよ。君も性懲りもなくシズちゃんを狙ってたんだねえ。でも残念ながらその男は俺のだからさ、返して貰えるかな。あげた覚えは無いけど」
「なに、言って……」
俺の呟きは双方ともに聞き取れなかったらしく、男と千景へ交互に視線を送る。千景はまるで親の敵に出会ったかのように男を睨み付け、歯を食い縛っていた。黙して動かない俺たちに、男が荒々しく近付いてきた。
そこでようやく千景が動き、俺と男の間に割って入る。まるで俺を庇うような立ち位置に眼を丸くして千景の背中を見つめる。
「退いてよ、六条千景君」
「そりゃあ出来ねえ相談だな、折原臨也。あんたはもう静雄をどうこうする資格なんてねえ」
「どういう意味かな」
「そのまんまだ。静雄が大変な時にあんたは居なかった。今更のこのこ出てきて、随分と都合の良い事言ってんじゃねえか」
街中で睨み合う二人に通行人の何人かが不思議そうな視線を送っている。今の所は立ち止まってまで見ようとしている者はいない。だが、中には千景がとある暴走族の頭である事を知っている奴も居るのか、声高に千景の名前が聞こえて来た。そちらに気を取られていた俺は、二人の会話をほとんど聞いていなかった。
「なにそれ。君、往生際が悪いとは思ってたけど此処までとは知らなかったなあ。そんなに好きだったの? シズちゃんの事……諦めきれないくらいに?」
「ああそうだ。ついでに言っておくと静雄はもうあんたなんか必要無いんだよ、とっとと帰れ」
「言うねえ。要らないかどうか本人に聞こうか……ねえ、シズちゃん」
いきなり話を振られて俺は千景の後ろでびくっと身を震わせる。よく判らないが、この二人がいがみ合っているのは俺が原因らしい。おずおずと進み出ようとするのを、千景が腕で止める。
「千景……?」
「……シズちゃん、何時からそいつの事、名前で呼ぶようになったの?」
男が驚いたような、そして忌々しげにそう言う。何時から、って、ずっと前からだろう。記憶が無くなる前から。訳が判らない俺に、千景の腕の力が増す。そういえばこの男は俺が記憶喪失になっている事を知らないんだ。だから話がこじれるのか、という結論に達した俺は状況を説明しようと口を開きかけるが、その前に千景が早口に言った。とても力強い声だった。
「生憎な、静雄は俺と付き合ってんだ」
「……は?」
「あんたこそ諦めろよ、静雄はもう……あんたのもんじゃない」
刹那、俺の身体がぐっと引き倒され――気付けば、千景の唇が重なっていた。
照れるだとか、狼狽するだとか、それ以前に俺は何をされたのか理解出来ずに、それ故に特に拒絶もしないまま、唇が離れた時に「あ……」と声を漏らす事ぐらいしか反応をしなかった。幸いだったのは、通行人が誰も見ていなかった事。だけど、目の前の奴は違う。
全く抵抗しなかった俺を信じられないような眼つきで男は見る。その顔に、余りの怒りで赤みが差す。そして美しい声を低い罵りの言葉に変えた。
「……、ふざけるなよ……!」
一瞬で男は袖口から何か、銀色の影が飛び出した。街中で見慣れているとは言い難い、しかし身近にあるもの。さも当たり前のような顔でナイフを取り出して構える。それを見て取った千景も懐に手を突っ込み、俺に向かって叫んだ。
「静雄行け! 早く!」
「え……、い、でも、千景……!」
「良いからすぐ行け!」
千景の声が今までに無いくらいに張りつめて、切羽詰まっているのに気付いた俺はどうすれば良いのか判らず、戸惑った末に男に視線をやる。余裕が無く、強い感情に支配されているような男は俺に悲痛な声を挙げる。
「シズちゃん!」
「静雄!」
考えが追いつかなくなった俺は、律儀に千景の両脇に落ちていた袋を抱えて走り出す。何が起こっているのか理解出来ない。あの男は一体何なんだ、千景はなんであんなに必死だったんだ。答えは他でも無い俺自身が持っているという現実を俺は知る方法を持っていなかった。