嘘吐きラバー
『六条とシズちゃんは単なる友人だよ』
その言葉で浮かんだのは他でもない、千景の顔だった。
嘘吐きラバー 3
素通りしそうなくらいあっさりと言われた台詞は俺の脳を休める事を赦してくれない。俺と千景の関係は、恋人じゃなく、友人。はいそうですかと言える内容ではない。
「……」
これは、眼が覚めた当初にも思った事だ。まさか自分が同性に恋慕を抱いていたなど。最初こそはまさか、と思ったし笑い飛ばそうとしたのだが、余りにも真剣な千景にとうとう俺は折れたんだった。俺の携帯のアドレス帳に泣けるほど女の名前が無かったのも理由のひとつだ。なのにようやく受け入れたそれを、こんな簡単に覆すなんて。
愕然とした俺は言葉を発せず、ただ悪戯に時間だけが過ぎ、折原もそんな俺を理解しているのか電話口に何も言ってこない。不気味な沈黙が流れ、結局俺は何の解決にもならない言葉を口にする事しか出来なかった。
「……嘘だろ? 嘘じゃないにしても、冗談だろ」
『俺は六条と違って、シズちゃんに嘘なんか言わないよ』
用意していたのか、間髪入れずに折原の声が鼓膜に入ってくる。余りにも隙間が無い所為で、俺の動揺が助長される。こいつの声は何処までも透き通っていて、そして有無を言わさない強制力のようなものを感じた。とはいえ、どう受け取るかは俺次第だ。そして俺は現実と事実の境目が判らなくなり戸惑いを素直に折原にぶつける。
「でも……でも、千景が」
『彼の言う事が全部正しいなんて限らないじゃないか。だって比較対象が無いんだから。考える要素も無しにそれを全部そのままの意味で受け取っちゃっていたら自分の意思なんて無いものになってしまうよ』
「……それなら、お前が、嘘を吐いてる可能性だってあるだろ」
『言ったでしょ。俺は、シズちゃんに嘘は吐かない。吐く必要が無い。俺たちが付き合ってるのは事実だからね。証拠が欲しい、本当の事が知りたい、そう思うなら帰っておいで』
折原は何処までも落ち着いていて、声にも余裕が感じられる。逆に不安を煽られ、今まで信じてきたものを否定されているような気分になる。俺が声を荒げたのは、たったひと月とは言え、俺と一緒に住んでいた千景に対するフォローであり、同時に折原への反抗だった。
「千景は……嘘は言っていない。それは俺にも判る」
『違うよ、彼は色んな事で君を騙してる。君は元々、彼の事は名字で呼んでたし他人行儀だった。それに、付き合ってた、という点に関しては完全に彼の捏造だよ。もし仮に。記憶が無い今のシズちゃんがあいつの事を好きだと言うなら……俺にも考えがある』
折原の声に凍り付く。余りに冷たい響きに、こいつが何をしようとしているのか予想しようとするが、全く考えつかない。俺はこの男の人間性を何一つ知らないからだ。冷たい気配に気圧された俺は、頭の中で並べ立てた言葉をすべて忘れてしまった。やっとの思いで浮かんだのは、たった一つの事実だけ。
「千景は……俺の事を好きだっていう。それは絶対に、嘘じゃねえ」
『……そうだね』
今まで俺の言葉に否定的だった折原が、初めて肯定する。お、と思うのも束の間、そのままの声音で現実を押しつける。
『だけどそれだけだよ。彼は確かにシズちゃんの事が好きなんだろうけど……それは片想いだ』
「なん、」
『だってシズちゃんは俺の事が好きなんだから』
少しだけ、折原の声が低くなる。言われた言葉の内容に途方に暮れた俺は唇を噛む。本来なら折原の立場で言える事じゃない言葉。頭が痛くなって、訊ねる質問も馬鹿げてきた。
「あんたは……俺の事、好きなのか?」
『好きだよ』
即答。冷静を貫いてきた折原の声が僅かに熱を帯び、語尾が強くなる。
『あの餓鬼とは比べ物にならないくらい君が好きだよ。誰よりも焦がれてる。だから、呆気なく俺を忘れたシズちゃんに対して憤りを感じていない訳じゃない。けどね……今なら触れさせた事を赦す事は出来る。だから、早く……帰ってきなよ』
今まで他人事のように話を聞いていた俺は、そこでようやく確信する。こいつも俺の事を、そういう観点で好きだという事。どうしても判らないのはどちらが正しいのかという事。
「俺は……あんたの事が判らない。それなのに」
『それは千景君にも言える事でしょ。記憶が無いのが不安なら、知り合いの医者を紹介してあげる。シズちゃんとも面識があるし何より、まあ腐れ縁みたいな友達だよ』
「え……俺に医者の友達なんかいたのか?」
『医者の……っていうより、友達が医者になった感じだよ。高校から一緒の岸谷新羅って言うんだけどね』
「……覚えてねえ」
『だろうね。でも彼に診せれば、判るようになるかもしれない。そこじゃ君を知っている人が少なすぎる。脳に刺激を与えないと。それに……シズちゃんが他の男のところに居るなんて虫唾が走る。俺が赦さない』
だから戻っておいでよ、と告げる折原に、俺は捕らわれているような感覚を味わった。そしてそれを、少なからず心地よいと思っている事。どちらが正しいのかは、俺が思い出すのが一番判りやすく、納得出来る方法だ。その為にはどんな結果でも、失くした記憶が欲しい。
「……そいつに診せれば、俺は元に戻るんだろうか」
『医学に……特に脳に関しては確証は無いし、専門家じゃないからいい加減な事は言えない。でもねシズちゃん……俺はシズちゃんに、戻って欲しいよ。恋人に忘れられるって、辛いんだ』
「っ……」
俺は真実が知りたい。失くしたピースを埋める為に。忘れた俺も苦しいが、忘れられた方だって辛いに決まってる。もし近しい人が俺を忘れてしまったらと考えれば、俺の痛みなんて大した事が無いような気がする。俺は一人頷き、千景の「こいつだけは駄目」という言葉を思い出す。忠告を無視する事を心の中で謝り、沈んだ気持ちを隠さず、蚊の囁くような声を出す。
「……折原……お前、何処にいる」
囁く声をスピーカーは拾ってくれたらしい。一瞬の間を置いて、折原が声を出す。
『今から行くよ、シズちゃんは千景君の家なんだろ? 場所は判るから、外で……』
「いや、あの……。明け方まで待ってくれるか」
『……どうして?』
やや、声が不機嫌になるが、俺は声を張ってその言葉を覆った。
「千景に、確認したいんだ。あんたに聞くのはその後が良い。……どっちかに意見、というか、考えが偏りたくはないんだ」
『……。……、相変わらず真面目だね、シズちゃん。でも彼が口を割るとは限らないよ?』
「俺は……少なからず、千景を信じてる。千景が最後まで言葉を曲げないなら、俺はそのつもりであんたの所に行く」
はっきりとした、決意にも似た宣言に折原が溜め息を吐いた。何を言われようとも受け入れるという強い意志を元に、ただ言葉を待つ。だが折原の言葉は、俺の予想とはどれも違った。
『どうせそうするなって言ったってするだろうから、もう俺は言わないよ。終わったら、携帯に連絡寄越して。ただね、これだけは覚えておいて』
「ん……?」
一呼吸置いて出された声は、折原臨也という人間が発する、最も酷な音だという事を、俺は知らなかった。