ポーラ・スター
フランシスが帰ったのを知っていたが、ギルベルトは暫く動くこともしなかった。
頭の中にはルートヴィッヒのことだけが巡っている。毎日毎日、過去のルートヴィッヒの姿を想い出す。笑った顔。怒った顔。悲しそうな顔。恥ずかしそうな顔。仕草、表情、子供の頃から何一つ忘れることが出来ないモノばかり。
こんなはずではなかった。消えるのは自分だったはずなのに。
もっと早く、自分があの上司をどうにか出来ていれば状況は変わったのだろうか。今更考えてもどうしようもないことばかりが頭を巡る。
『愛してる、兄さん、永遠に——』
最後の言葉を想い出すとともに嗚咽が漏れた。
「ルートヴィッヒ…ルートヴィッヒ…愛してる…俺もだ……ルートヴィッヒ…」
両手で顔を覆い声を上げて泣いた。
その声がふっと止まる。
「ふふふ…ちゃんと気付いた?やっぱり、君は変ってないよね〜」
変らない穏やかな声。だが、その実何を考えているか1番分からない声。
ギルベルトは涙に濡れた顔のまま、振り返った。用などないが、無視することが出来ない男。それがイヴァンという男だった。
「…何の用だ?」
はっきりとした声に、イヴァンは余計に笑顔を深めた。
「君にとってもいい話を持って来たんだよ」
変らないイヴァンの笑顔。透明な紫の瞳の奥が怪しく輝いている。ギルベルトは泣き濡れた顔で瞬きも忘れ、その瞳を見つめた。
誰かが呼んでいる。
懐かしい声で。何度も聞いた声で。
呼んでいる。
呼んでいる。
「 ヴェスト 」
ぼんやりとした視界に見慣れない天井。
躯を動かさないまま辺りを窺う。
「……!」
「……っ」
激しく言い合う声が膜を張った向こうからの様に聞こえる。
それがだんだん明瞭な音になって、視界もクリアになって行った。
「ルートヴィッヒ!目が覚めたかい!」
「本当かよ……」
「…ルイ…」
口々に話す男達は皆覚えがあった。アルフレッド、アーサー、フランシス、連合の奴等だ。それが何故いるのか。
ゆっくりと躯を起こすと、頭がぐらりと揺れた。
慌ててフランシスが躯を支えてくる。
「…すまない…」
礼を言うと、そこは応接室の真ん中に置かれた、樫材の大きな机の上だった。
何故こんな処に寝ているのか。
額を押さえながら、記憶を呼び覚まそうとする。
たしか、敗戦後、傷と経済の混乱で体調不良で、躯はボロボロに。
それから——
そこまで考えて、目を見開いた。
「…何故だ…?」
ゆっくりと、自分を見つめる3対の瞳を見返す。
意識が戻る寸前に聞こえた声。ルートヴィッヒを呼ぶ声。
だが、聞いたことのない名だった。
『ヴェスト』と
「兄さんは!兄さんはどうした!兄がドイツになったはずだ!それが…!」
狼狽し、落ち着きをなくしたルートヴィッヒの肩をアルフレッドが強く揺さぶった。
「落ち着いて聞いてくれ」
ルートヴィッヒは瞬きも忘れ。その青く燃える炎の様な瞳を見つめた。何処までも強かった瞳が。なぜか今揺れている気がする。
気のせいであって欲しい。
「君を戻したのは、君にドイツになってもらう為だ」
何を言っている。ドイツは兄なのに
「君には、唯一のドイツ 『ドイツ連邦共和国』 になってもらう」
意味が分からない。
どう言うことだ。
この何かを失った様な、喪失感はなんだ。
「ドイツは君は一人だけだ。決して認めてはけない 『ドイツ民主共和国』を——」
『ヴェスト』
兄の呼ぶ声。聞いたことのない呼び名。
この失われたものが、兄だということにルートヴィッヒはようやく気がついた。
ルートヴィッヒは東西に別れたベルリンの街を歩いた。
銃を構えた東側の兵士が、バルケードの周りに無表情に立っている。
彼らもドイツ人のはずなのに。
国が二つに別れてしまった。
これが兄の望みだと言うのだろうか。
そうしたら、自分は何を間違えていたというのだろうか。
ルートヴィッヒの後ろを静かに着いて歩いていたフランシスが、西側の兵士の前で立ち止まるルートヴィッヒに近づくと、そっと肩を抱いて歩きだした。
暫く歩くと、フランシスが話し出した。
「お前は、お前が消えてからのギルベルトを知らない。お前達の考えは利己的過ぎたんだ……」
そこの言葉に、ルートヴィッヒは胸が締め付けられるようだった。
自分の行いが兄を追いつめたのか。
「お前はアイツの本当の望みを理解してなかった。アイツはお前の幸せを分かっていなかった。だからかな…国が二つに別れた…」
そんなつもりはなかったのだ。
ルートヴィッヒの足は止まってしまい、フランシスも敢えて歩かせようとはしなかった。立ち止まり俯いたルートヴィッヒから離れる。
夕暮れが近づき、空が淡く茜色になりはじめている。
俯くルートヴィッヒは気付かなかったが、北の空にまた北極星が姿を現していた。
「ギルベルトが言っていた。お前がアイツのポーラ・スターなんだって」
言葉に顔を上げる。まだ明るい空に、微かに見える2等星。天に在って唯一動かぬ、星々の王。
「アイツの中心は全部おまえ。アイツはお前の為だけに生きたかった」
そう言って、フランシスはルートヴィッヒを見つめ、呆れた様に笑った。
「勝手な騎士道だよな」
ルートヴィヒは驚いた様にフランシスを見た。
「兄貴を残して消えたお前も勝手だけど」
その言葉に、ルートヴィヒの眉が泣きそうに歪んだ。
フランシスはゆっくりと微笑み、ルートヴィッヒを抱きしめた。
街の往来で。まだ行き交う人がいるのに。だが、ルートヴィッヒはされるがままになった。少しだけこの温かさが、似ていると思ったからだ。
「知ってるか。北極星って時代によって変るんだってさ。2万年だか3万年ごとに変るんだって。一つじゃないんだってよ」
「だからさ」と言って、俯くルートヴィッヒの顔をフランシスは上げさせた。
「お前らさ、お互いがポーラ・スターでいいんじゃないの?お互いの為に消えることが出来るなら、きっとお互いの為に消えない方法もあるはずだよ」
ルートヴィッヒの頬に涙が流れ出した。
ずっと泣いてはいなかった。兄を残して消えるときも。国を引き裂かれ、兄と離ればなれにされたと気付いたときも。
フランシスが、止めどなく流れ出す涙を、その度に拭った。
「ギルベルトはおまえを取り戻した。次はルートヴィッヒがアイツを取り戻す番だよ」
「…ああ…」
フランシスが子供の様に泣くルートヴィヒを額を擦り寄せ子供の様に慰める。
「天に一つのポーラ・スターは寂しすぎるんだ。けど二人でいればきっと寂しくない。だから、泣かないで。おまえの兄貴の様にはムリだけど、お兄さんが傍にいてあげるから、ね?」
ルートヴィッヒは何度も頷いた。
きっと取り戻そう。きっと二人で生きて行く道があるはずだ。
今度は道を誤らない。
ルートヴィッヒの一つだけのポーラ・スター
それが道を正してくれた
今度は間違えない
必ず正しい道に辿り着こう
ポーラ・スター
ポーラ・スター
それは導きの星
終わり