アニマ -6
「生まれつき目の見えない人間でした。彼は寡黙な父と、病弱な母の元で育てられましたが、そんなに不自由はなく、少なくとも生きてはゆけました。地方の、没落した寺の家でした。お金はありませんでしたが、その日に食べるものには困っていなかったようです。しかし彼は、両親の顔を見たことはありませんでした。
父は無口で寡黙で朴訥な人柄で、つまり少々近寄りがたい雰囲気を持つ人間でしたから、少年は父の前に行く時はいつも、いささか緊張するのでした。少年は父親に学問を習い、目が見えず本が読めない代わりに、いくつもの教典を諳んじることができるようになりました。
彼は寺の子らしく品行方正で、賢く、素直な子供でした。だからでしょう。ある日、夢に教典に出てきた仏様が現れてこう言ったのです。
『お前のよい行いは常日頃見て感心している。そこでお前に見える目を授けてやろうと思うが、どうか』
あるいは哀れな少年の想像力の賜物かもしれませんが、少年は一も二もなく仏様を崇めて、是非そのようにしてほしい、そのためなら何でもします、と誓いました。彼は前にも増して善行に励みました。そしてとうとうある日、父が朗報を持ってきました。医者が彼の目を治してくれるかもしれない、と言うのです。少年は喜びました。もちろん、両親も。少年の父親も当時の住職と同じように医術の心得はありましたが、それほど詳しいとはいえませんでした。
そこで少年と母親は、連れだって父の師匠であるというその医者の元を訪ねました。少年は期待に胸を躍らせました。優しそうな声。少年は医者の声を聞いてひどく安心しました。少年は何度も彼の元を訪れ、彼だけが作れるという薬湯で次第に目を良くしてゆきました。けれども、少年はお金のないはずの我が家が、どうやって彼をこんなに医者に連れて行くことができるのかと幼いながら不思議に思っていました。
ある日彼は、医者に木の柄のついた何かを渡され、不思議な動きを習いました。医者は、人が襲ってきたらこうしなさい、と動きを教え込みました。そして木の柄のついたものは刃物だと言いました。けれども彼は、刃物がどのように危ないのかは知りませんでした。彼は目が見えないしと、母親が危ながって刃物など持たせたことがなかったので。その頃にはもうそろそろ目の包帯が取れる、と言われていました。完治間近。少年はその言葉をなんて素敵な響きだろう、と思っていました。
しばらく経った夜、少年は獣のような男のあえぎ声で目を覚ましました。何者かが彼の首を絞めている。苦しい。少年はとっさに枕元の木の柄を取り、医者に習ったとおりに動かしました。
生暖かい液体が彼の顔にかかり、ひゅうひゅうと細い息の漏れる音が聞こえました。自分に覆い被さった肉体は急速に重みを増してゆき、少年はやっとの事でそこから這い出ました。そして、どうして良いかわからないまま、少年は朝を待ちました。その頃になると明るいか暗いかの区別くらいはついたので。それで両親の元に行ってどうしたらよいかと聞くつもりでした。
少年は自分の年齢など数えたことはありませんでしたが、たぶん十は超えていなかったように思います。なすすべがありませんでしたし、彼はそれでなくとも世界のことを知らなすぎました。
朝になると母親がやってきて、少年を抱き上げました。彼は安心して眠りにつき、朝起きるといつもとは違う寝台でした。今までのような質素なものではなく、いいにおいのする上質なものでしたし、床までの距離を測りかねるほどふかふかとしていました。
「坊や、起きましたか?」
母の声が聞こえたので、少年は起き上がろうとしました。けれども母に押さえつけられ、起き上がることができません。彼はどうして起き上がってはいけないのか、と尋ねましたが、答えは得られませんでした。
そうこうしているうちに、少年はまたも眠りに落ち、意識を手放しました。
次に目を開けると、何か様子がおかしかった。何かが決定的に違う。視界がとても明るく、なにかの輪郭が見えました。少年はついぞ使ったことのない筋肉を駆使して輪郭に焦点を合わせました。美しい人間がそこにいました。
「坊や」
聞き慣れた声で人が言いました。この人間が母なのだ、と少年は認識しました。こんなに美しい人物が母。それは少年にとってうれしいことでした。
「母上」
「坊や、見えるようになったのですね」
母親は涙を流して喜びました。そして、その後ろにもう一人の人間がいました。年老いて、少し太った体をした、醜い男でした。それを父だと少年は思いました。父にうまく触れたことが無かったのです。少年は父の容姿にはすこしだけがっかりとしました。
けれども彼らは少年にとって今まで通り、平凡に過ごしました。父は思ったより多くの人に頼りにされている様でしたし、母はいつまで経っても美しいままでした。少年は文字を学習し、今までよりももっと聡明に育ちました。少年は幸せでした。
十五ほどの年齢になったときでしょうか。ふとした瞬間に父の声を聞いたとき、奇妙な違和感を覚えました。それは目を開いてから少年の前で口をきかなかった父親が、ふとした瞬間に何かを口にし、それかた慌てたように口を押さえたのです。少年は違和感の正体がわかりませんでしたが、とにかくなにか心の底にわだかまるのを感じました。
家の鏡で見ると、少年は立派な青年になりつつあるのでした。それから、鏡で見るたびに母に似てくるのです。父にはちっとも似ていない、と彼は思ったものです。それから自分が醜い老人になるのを恐れました。彼の家は町のどこからも離れた山奥にあって、父親の医院に尋ねてくる以外は人のいない土地でした。同じ年頃の人間はいませんでした。山里にある市場に買い物に出かける必要があるときにはなぜか老体の父が行き、彼は家にとどめ置かれました。
少年がもう立派な大人になった頃母親は床に伏せりがちになりました。病気で弱ってゆく母は頼りなく、その骨と皮だけになったような手がか細く庇護欲をそそりました。父はよく彼女を看病しているようでしたが、少年は自分の手で彼女を守りたいと思うようになりました。
寝ている母の残像が抜けない。彼は幾日も眠れない夜を過ごします。ある日寝ている母を一目見ようと、彼は寝所をそっと抜け出しました。そっと母の寝所の扉を開け、そこをのぞき見ると、母親と醜悪な老人が獣の様に交じり合っているところでした。彼はわずかな吐き気を覚えながらもその行為の一部始終を観察しました。弱々しい母の喘ぐような声。老人の荒い息。ささやかれる何かの言葉。
彼はいつしか母親を手に入れたいと思うようになり、父親が邪魔になり始めました。けれどもそういったことにどう対処して良いかわからなかった彼は、次第にその感情が憎しみに変わってゆくのを感じながら、どうすることもできませんでした。
ある時、詳しい話は省きますが、母親が亡くなりました。青年となった彼は、父との二人生活を送るようになりました。青年はある日父親に呼び出されました。
「お前は私の子ではない」
父親にしてみれば正直な告白なつもりだったのでしょう。残酷なトリガー! 青年はついに自分を止めることができなくなり、老人を激しく糾弾しました。
父は無口で寡黙で朴訥な人柄で、つまり少々近寄りがたい雰囲気を持つ人間でしたから、少年は父の前に行く時はいつも、いささか緊張するのでした。少年は父親に学問を習い、目が見えず本が読めない代わりに、いくつもの教典を諳んじることができるようになりました。
彼は寺の子らしく品行方正で、賢く、素直な子供でした。だからでしょう。ある日、夢に教典に出てきた仏様が現れてこう言ったのです。
『お前のよい行いは常日頃見て感心している。そこでお前に見える目を授けてやろうと思うが、どうか』
あるいは哀れな少年の想像力の賜物かもしれませんが、少年は一も二もなく仏様を崇めて、是非そのようにしてほしい、そのためなら何でもします、と誓いました。彼は前にも増して善行に励みました。そしてとうとうある日、父が朗報を持ってきました。医者が彼の目を治してくれるかもしれない、と言うのです。少年は喜びました。もちろん、両親も。少年の父親も当時の住職と同じように医術の心得はありましたが、それほど詳しいとはいえませんでした。
そこで少年と母親は、連れだって父の師匠であるというその医者の元を訪ねました。少年は期待に胸を躍らせました。優しそうな声。少年は医者の声を聞いてひどく安心しました。少年は何度も彼の元を訪れ、彼だけが作れるという薬湯で次第に目を良くしてゆきました。けれども、少年はお金のないはずの我が家が、どうやって彼をこんなに医者に連れて行くことができるのかと幼いながら不思議に思っていました。
ある日彼は、医者に木の柄のついた何かを渡され、不思議な動きを習いました。医者は、人が襲ってきたらこうしなさい、と動きを教え込みました。そして木の柄のついたものは刃物だと言いました。けれども彼は、刃物がどのように危ないのかは知りませんでした。彼は目が見えないしと、母親が危ながって刃物など持たせたことがなかったので。その頃にはもうそろそろ目の包帯が取れる、と言われていました。完治間近。少年はその言葉をなんて素敵な響きだろう、と思っていました。
しばらく経った夜、少年は獣のような男のあえぎ声で目を覚ましました。何者かが彼の首を絞めている。苦しい。少年はとっさに枕元の木の柄を取り、医者に習ったとおりに動かしました。
生暖かい液体が彼の顔にかかり、ひゅうひゅうと細い息の漏れる音が聞こえました。自分に覆い被さった肉体は急速に重みを増してゆき、少年はやっとの事でそこから這い出ました。そして、どうして良いかわからないまま、少年は朝を待ちました。その頃になると明るいか暗いかの区別くらいはついたので。それで両親の元に行ってどうしたらよいかと聞くつもりでした。
少年は自分の年齢など数えたことはありませんでしたが、たぶん十は超えていなかったように思います。なすすべがありませんでしたし、彼はそれでなくとも世界のことを知らなすぎました。
朝になると母親がやってきて、少年を抱き上げました。彼は安心して眠りにつき、朝起きるといつもとは違う寝台でした。今までのような質素なものではなく、いいにおいのする上質なものでしたし、床までの距離を測りかねるほどふかふかとしていました。
「坊や、起きましたか?」
母の声が聞こえたので、少年は起き上がろうとしました。けれども母に押さえつけられ、起き上がることができません。彼はどうして起き上がってはいけないのか、と尋ねましたが、答えは得られませんでした。
そうこうしているうちに、少年はまたも眠りに落ち、意識を手放しました。
次に目を開けると、何か様子がおかしかった。何かが決定的に違う。視界がとても明るく、なにかの輪郭が見えました。少年はついぞ使ったことのない筋肉を駆使して輪郭に焦点を合わせました。美しい人間がそこにいました。
「坊や」
聞き慣れた声で人が言いました。この人間が母なのだ、と少年は認識しました。こんなに美しい人物が母。それは少年にとってうれしいことでした。
「母上」
「坊や、見えるようになったのですね」
母親は涙を流して喜びました。そして、その後ろにもう一人の人間がいました。年老いて、少し太った体をした、醜い男でした。それを父だと少年は思いました。父にうまく触れたことが無かったのです。少年は父の容姿にはすこしだけがっかりとしました。
けれども彼らは少年にとって今まで通り、平凡に過ごしました。父は思ったより多くの人に頼りにされている様でしたし、母はいつまで経っても美しいままでした。少年は文字を学習し、今までよりももっと聡明に育ちました。少年は幸せでした。
十五ほどの年齢になったときでしょうか。ふとした瞬間に父の声を聞いたとき、奇妙な違和感を覚えました。それは目を開いてから少年の前で口をきかなかった父親が、ふとした瞬間に何かを口にし、それかた慌てたように口を押さえたのです。少年は違和感の正体がわかりませんでしたが、とにかくなにか心の底にわだかまるのを感じました。
家の鏡で見ると、少年は立派な青年になりつつあるのでした。それから、鏡で見るたびに母に似てくるのです。父にはちっとも似ていない、と彼は思ったものです。それから自分が醜い老人になるのを恐れました。彼の家は町のどこからも離れた山奥にあって、父親の医院に尋ねてくる以外は人のいない土地でした。同じ年頃の人間はいませんでした。山里にある市場に買い物に出かける必要があるときにはなぜか老体の父が行き、彼は家にとどめ置かれました。
少年がもう立派な大人になった頃母親は床に伏せりがちになりました。病気で弱ってゆく母は頼りなく、その骨と皮だけになったような手がか細く庇護欲をそそりました。父はよく彼女を看病しているようでしたが、少年は自分の手で彼女を守りたいと思うようになりました。
寝ている母の残像が抜けない。彼は幾日も眠れない夜を過ごします。ある日寝ている母を一目見ようと、彼は寝所をそっと抜け出しました。そっと母の寝所の扉を開け、そこをのぞき見ると、母親と醜悪な老人が獣の様に交じり合っているところでした。彼はわずかな吐き気を覚えながらもその行為の一部始終を観察しました。弱々しい母の喘ぐような声。老人の荒い息。ささやかれる何かの言葉。
彼はいつしか母親を手に入れたいと思うようになり、父親が邪魔になり始めました。けれどもそういったことにどう対処して良いかわからなかった彼は、次第にその感情が憎しみに変わってゆくのを感じながら、どうすることもできませんでした。
ある時、詳しい話は省きますが、母親が亡くなりました。青年となった彼は、父との二人生活を送るようになりました。青年はある日父親に呼び出されました。
「お前は私の子ではない」
父親にしてみれば正直な告白なつもりだったのでしょう。残酷なトリガー! 青年はついに自分を止めることができなくなり、老人を激しく糾弾しました。