花咲く生活
「あ?」
低い静かな声は、深海を思わせる。冷たいが、特別耳を突き刺すようなきついものではない。けれどそれは確実に空気を緊張させた。従業員たちは、表情にこそ出さないが、ピリと毛先までをも緊張させる。
「てめえ、色恋営業はやめとけって、前も言ったよな?」
どうなんだよ、と声は続く。
店内は開店準備に忙しなく、手を止める従業員はいなかったが、それでも誰もが耳をそばだてていた。 堺の声には、そういう力があるのだ。
「……スンマセン」
その“声”に気圧されたかのように、仏頂面のまま、堺の前に立たされた若いホストが呟くように言った。口調こそ謝ってはいるが、双眸からは未だふて腐れたような色が消えない。それを下から睨み上げている堺の視線は、彼の声と同じく、低く、静かで、冷たい。
続く堺の言葉は、実に唐突だった。
「ヤッたのか」
「は?」
予想外の問いに、若者は素が出たようなぶっきらぼうな口調で答えた。しかしそれを咎めることはなく、堺は続ける。
「ヤッたのかって聞いてんだよ。どうなんだ」
「……」
2人の視線が絡み合う。どちらが勝っているかなど、競うまでもなかった。
若いホストは黙りこくって、そのままぎゅ、と唇を噛んだ。それを見て、堺は表情を変えないまま「ヤッたんだな」と呟く。
若いホストは、ライオンの鬣のような髪の盛りをしているが、今や表情はまるで蒼白な能面であった。スツールに腰掛けながらその能面顔を見上げる堺の視線は、“ただ見上げている”。たったそれだけなのに、その瞳に隠された何か見逃せない輝きのせいだろうか。そうされるだけで、誰もが堺に叱られたような気持ちになるのだ。
堺はひしゃげたソフトケースから引っ張り出した煙草を咥えると、差し出されたライターを完全に無視し、自ら火を付けた。フウ、と細く煙が吐かれる。それからゆうに3口分は、堺は何も言わず相手をじっと見つめていた。
そしてようやく口を開き、
「……クビんなるのと、一番下からやり直すのと、どっちにする」
そう問うた堺の表情は、無表情にして怜悧である。
そのときであった。ドアのベルがカラカラと鳴り、パタパタ、足音――
「ちゃーッス! おつかい行ってきましたーッ!」
はしゃぎすぎた犬のように室内に飛び込んできた小さな男に、部屋中の人間が、無言で注目した。
え? え? と、硬直が伝染したそのチワワは、ただ、タイミングが悪かっただけではあるのだが……。
灰皿に煙草をもみ消し、ハア、と堺はため息を吐いた。
「あ……お疲れ様ーッス!」
閉店後、アフターの無いホストたちが続々と上がっていくのを見送り、世良は声を張り上げた。「世良さんうるせえよ」とすかさず野次が飛んでくるが、それが世良の“素”なのだから、どうしようもない。
世良は、18のころからホストクラブに勤めている。現在22歳だ。
ホストクラブ勤めと言ってもホストというわけではなく、立場はウエイター。賑やかすぎるキャラクターのためか客に弄られることは多いが、ホストではないから、席について客の接待をすることは無い。
ただ、低身長にピンピン跳ねた金髪、童顔にオマケのように生えたヒゲなど、世良はいちウエイターにしておくには、あまりに弄りどころが多すぎるのである。最近では「世良君お願い!」などと指名を入れてくる客もちらほらいて、世良は幹部らからも真剣にホストへの転向を勧められている。
「あー世良、バックのゴミ集めてきてくんね? 明日回収だから、終わったら店の前に出しといて」
「ウッス!」
要領は良いほうではないのだが、世良のことは見かけに反して頑張っている、と店のほとんどの人間がそう言うだろう。
華やかなように見えてホストクラブはとことん体育会系な職場だ。新人は人間とみなされないと言っても過言ではないし、たとえ長くいたとしても成績が振るわなければそれに見合った待遇しか与えられない。入店から数ヶ月もしないうちに“飛んで”しまう従業員も少なくはない。
当然ホストクラブのしきたりはもれなく世良にも容赦なく襲い掛かったが、それでも持ち前の明るさと一途さで新人時代を乗り越え、今はようやく類人猿に進化した、と自認できるレベル。
もちろん辛いことも多かったけれど、そのひたむきさのためか、今では客の女の子たちに「小さいのにチョコチョコ働いてかわいい!」などとチヤホヤされているのだから、世の中何がウケるのかはわからないものだ。
また、世良は確かにやかましいタイプで頭もかなり悪いが、それなりに空気は読めるし、ある程度は“その場に合わせたはしゃぎ方”というのも心得ている。それに、入店時からしっかり叩き込まれてきただけあってマナーもしっかりしているし、容姿も……まあそれなりにかわいらしい外見をしている。
しかし――
(でもやっぱり……俺は……)
誘われるたびに、申し訳無さそうに辞退する世良に幹部たちも首を傾げているが、なにぶんウエイターとしてもなかなか頑張っているから、無理にホストにさせるわけにもいかない。
そんなこんなで、今日も世良は元気に雑用係だ。
「失礼しゃーす! ゴミ集めに来ましたーっ!」
閉店後の事務室では幹部たちが会議をしていたり、売り上げの計算等をしていることが多く、うっかり挨拶無しで入れば待っているのは鉄拳制裁である。ただでさえ今日は堺が入っているから、さすがの世良も緊張混じりにドアをノックした。
「おー、入れ」
「ッス!」
返ってきた返事は、どうやら堺のもののようだ。
背をピンと伸ばし、ゴミ袋を引きずりながら世良が事務室に入れば、そこにいたのはやはり堺である。しかし、ひとりだけだ。普段なら、幹部数人が集まっているはずなのに……。
「あの、他の方はどうしたんスか?」
「あー……協力会の会議の方、行ってもらった。今日は町内の見廻りあるからな」
思わず世良が尋ねれば、堺は顔を机の上に向けたままぼそぼそと答えた。
「そうなんスか。お疲れ様ッス」
――なるほど、多分、世良にゴミ捨てを頼んだボーイは、それを知っていたのだ。堺が事務室にひとり残っていることを。
幹部としてホストたちの教育を担当している堺は自分にも他人にも厳しく、近寄りがたいと言うか、特に若手たちからは敬遠されているふしがある。
(まあ、俺も……前まではそうだったよ)
今は、また別の意味で緊張する。
内心でそんなことを考えながらゴミを集めていると、突然背後から「おい」と声を掛けられ、「まさか、心を読まれたのか!」と、世良は小さな背中をビクリと震わせた。
声の主は、当然堺だ。
「は、はい」
「ゴミ捨てはお前の係なのか?」
「あ、えーと、あの、係の人、今日用事があるらしいんス」
嘘の下手な世良が顔を上げないままそう答えれば、「ふうん」と、堺の低い返事が返ってきた。
(う、あー……)
こりゃバレてるな、と世良は心臓をバクバク言わせながら心の中で先輩に謝ったが、予想に反し、それ以上に堺が何か言ってくる様子はない。テーブルの上に開いた帳簿を見下ろして、指でコツコツやっている。
机の上には、吸殻が山盛りの灰皿。これも回収しなければならないのだけれど、そのためにはどうしても堺に近づかなければ……
低い静かな声は、深海を思わせる。冷たいが、特別耳を突き刺すようなきついものではない。けれどそれは確実に空気を緊張させた。従業員たちは、表情にこそ出さないが、ピリと毛先までをも緊張させる。
「てめえ、色恋営業はやめとけって、前も言ったよな?」
どうなんだよ、と声は続く。
店内は開店準備に忙しなく、手を止める従業員はいなかったが、それでも誰もが耳をそばだてていた。 堺の声には、そういう力があるのだ。
「……スンマセン」
その“声”に気圧されたかのように、仏頂面のまま、堺の前に立たされた若いホストが呟くように言った。口調こそ謝ってはいるが、双眸からは未だふて腐れたような色が消えない。それを下から睨み上げている堺の視線は、彼の声と同じく、低く、静かで、冷たい。
続く堺の言葉は、実に唐突だった。
「ヤッたのか」
「は?」
予想外の問いに、若者は素が出たようなぶっきらぼうな口調で答えた。しかしそれを咎めることはなく、堺は続ける。
「ヤッたのかって聞いてんだよ。どうなんだ」
「……」
2人の視線が絡み合う。どちらが勝っているかなど、競うまでもなかった。
若いホストは黙りこくって、そのままぎゅ、と唇を噛んだ。それを見て、堺は表情を変えないまま「ヤッたんだな」と呟く。
若いホストは、ライオンの鬣のような髪の盛りをしているが、今や表情はまるで蒼白な能面であった。スツールに腰掛けながらその能面顔を見上げる堺の視線は、“ただ見上げている”。たったそれだけなのに、その瞳に隠された何か見逃せない輝きのせいだろうか。そうされるだけで、誰もが堺に叱られたような気持ちになるのだ。
堺はひしゃげたソフトケースから引っ張り出した煙草を咥えると、差し出されたライターを完全に無視し、自ら火を付けた。フウ、と細く煙が吐かれる。それからゆうに3口分は、堺は何も言わず相手をじっと見つめていた。
そしてようやく口を開き、
「……クビんなるのと、一番下からやり直すのと、どっちにする」
そう問うた堺の表情は、無表情にして怜悧である。
そのときであった。ドアのベルがカラカラと鳴り、パタパタ、足音――
「ちゃーッス! おつかい行ってきましたーッ!」
はしゃぎすぎた犬のように室内に飛び込んできた小さな男に、部屋中の人間が、無言で注目した。
え? え? と、硬直が伝染したそのチワワは、ただ、タイミングが悪かっただけではあるのだが……。
灰皿に煙草をもみ消し、ハア、と堺はため息を吐いた。
「あ……お疲れ様ーッス!」
閉店後、アフターの無いホストたちが続々と上がっていくのを見送り、世良は声を張り上げた。「世良さんうるせえよ」とすかさず野次が飛んでくるが、それが世良の“素”なのだから、どうしようもない。
世良は、18のころからホストクラブに勤めている。現在22歳だ。
ホストクラブ勤めと言ってもホストというわけではなく、立場はウエイター。賑やかすぎるキャラクターのためか客に弄られることは多いが、ホストではないから、席について客の接待をすることは無い。
ただ、低身長にピンピン跳ねた金髪、童顔にオマケのように生えたヒゲなど、世良はいちウエイターにしておくには、あまりに弄りどころが多すぎるのである。最近では「世良君お願い!」などと指名を入れてくる客もちらほらいて、世良は幹部らからも真剣にホストへの転向を勧められている。
「あー世良、バックのゴミ集めてきてくんね? 明日回収だから、終わったら店の前に出しといて」
「ウッス!」
要領は良いほうではないのだが、世良のことは見かけに反して頑張っている、と店のほとんどの人間がそう言うだろう。
華やかなように見えてホストクラブはとことん体育会系な職場だ。新人は人間とみなされないと言っても過言ではないし、たとえ長くいたとしても成績が振るわなければそれに見合った待遇しか与えられない。入店から数ヶ月もしないうちに“飛んで”しまう従業員も少なくはない。
当然ホストクラブのしきたりはもれなく世良にも容赦なく襲い掛かったが、それでも持ち前の明るさと一途さで新人時代を乗り越え、今はようやく類人猿に進化した、と自認できるレベル。
もちろん辛いことも多かったけれど、そのひたむきさのためか、今では客の女の子たちに「小さいのにチョコチョコ働いてかわいい!」などとチヤホヤされているのだから、世の中何がウケるのかはわからないものだ。
また、世良は確かにやかましいタイプで頭もかなり悪いが、それなりに空気は読めるし、ある程度は“その場に合わせたはしゃぎ方”というのも心得ている。それに、入店時からしっかり叩き込まれてきただけあってマナーもしっかりしているし、容姿も……まあそれなりにかわいらしい外見をしている。
しかし――
(でもやっぱり……俺は……)
誘われるたびに、申し訳無さそうに辞退する世良に幹部たちも首を傾げているが、なにぶんウエイターとしてもなかなか頑張っているから、無理にホストにさせるわけにもいかない。
そんなこんなで、今日も世良は元気に雑用係だ。
「失礼しゃーす! ゴミ集めに来ましたーっ!」
閉店後の事務室では幹部たちが会議をしていたり、売り上げの計算等をしていることが多く、うっかり挨拶無しで入れば待っているのは鉄拳制裁である。ただでさえ今日は堺が入っているから、さすがの世良も緊張混じりにドアをノックした。
「おー、入れ」
「ッス!」
返ってきた返事は、どうやら堺のもののようだ。
背をピンと伸ばし、ゴミ袋を引きずりながら世良が事務室に入れば、そこにいたのはやはり堺である。しかし、ひとりだけだ。普段なら、幹部数人が集まっているはずなのに……。
「あの、他の方はどうしたんスか?」
「あー……協力会の会議の方、行ってもらった。今日は町内の見廻りあるからな」
思わず世良が尋ねれば、堺は顔を机の上に向けたままぼそぼそと答えた。
「そうなんスか。お疲れ様ッス」
――なるほど、多分、世良にゴミ捨てを頼んだボーイは、それを知っていたのだ。堺が事務室にひとり残っていることを。
幹部としてホストたちの教育を担当している堺は自分にも他人にも厳しく、近寄りがたいと言うか、特に若手たちからは敬遠されているふしがある。
(まあ、俺も……前まではそうだったよ)
今は、また別の意味で緊張する。
内心でそんなことを考えながらゴミを集めていると、突然背後から「おい」と声を掛けられ、「まさか、心を読まれたのか!」と、世良は小さな背中をビクリと震わせた。
声の主は、当然堺だ。
「は、はい」
「ゴミ捨てはお前の係なのか?」
「あ、えーと、あの、係の人、今日用事があるらしいんス」
嘘の下手な世良が顔を上げないままそう答えれば、「ふうん」と、堺の低い返事が返ってきた。
(う、あー……)
こりゃバレてるな、と世良は心臓をバクバク言わせながら心の中で先輩に謝ったが、予想に反し、それ以上に堺が何か言ってくる様子はない。テーブルの上に開いた帳簿を見下ろして、指でコツコツやっている。
机の上には、吸殻が山盛りの灰皿。これも回収しなければならないのだけれど、そのためにはどうしても堺に近づかなければ……