花咲く生活
「あの……堺さん、前から言おうと思ってたんスけど、その眼鏡、似合ってますね」
気まずさを誤魔化すかのように、灰皿に手を伸ばしながら世良は極力明るい声で言った。あ? と、堺が眉間に皺を寄せながら世良を振り返り、睨む。もしかして、ゴマすりと思われたのだろうか?
意外とナイーブな世良の心に不安は募るばかりだったけれど、今言ったことは正真正銘の本心だった。プラスチックの黒縁で、フレームは太め。よく見るデザインだけれど、眼鏡とは縁のない世良にも、なんとなく良いものなのだろうとわかる。以前からいいなあ、と思っていたのだ。
こうして何か書き物をしているときとか、風呂上りに雑誌を読んでいるときとか、休日に2人でぼんやりテレビを見ているとき、とか――。
「あの、ど、どこのッスか?」
じろりとした視線は暫し世良を見つめていたが、ふ、と反らすと、堺は小さく短くブランド名らしきものを答えた。うっすらと聞いたことがある名前だ。多分、眼鏡以外のアクセサリーなども取り扱っているんじゃないだろうか。常ならば左から右へと流してしまうだろうに、そのブランド名は世良の脳裏にはっきりと焼きついた。
「……俺も、チェックしてみよっかな」
「お前、目悪いのか?」
「いや、悪くはないんスけど」
「へー。そういやお前、視力いくつ」
「に、2.0ス」
「はっ」
らしいな、と、堺は小さく笑った。笑いの意味をいまいち図りかねて、え、え、と世良は思わずキョロキョロする。それを見て堺はますます、ニヤリといやらしく、けれど最高に格好いい顔で笑うのだった。
「それって、どういう……」
「あ? あー、なんか、サバンナに住んでそう?」
サバンナ!? と思わず世良が素っ頓狂な声を上げれば、堺は野生だよ野生、と呟き、ついにはくくく、と口を押さえて笑いはじめてしまった。
「なんスかー、それ……」
「そのまんまの意味」
「そのまんまって……なんスかー! なんで笑うんスかー! もー!」
怒りと恥ずかしさで世良は思わず叫んだけれど、顔がうっすらと赤かったのはそれだけではなく――
(カッコいー……)
何がツボにはまってしまったのか爆笑する堺の横顔はくしゃりと崩れていたけれどそれでも、いや、それでむしろ世良には、その横顔に、堺のあの渋い格好良さが際立っているような、そんな気がしたのだ。
それだから、
「はー、笑った。おい、今からうち来るか」
そんなふうにいきなり真剣な顔で言うから……。
世良は思わずブンブンと何度も何度も頷いてしまうのである。
***
赤信号でブレーキを踏むと、BGMもちょうどしっとりしたバラードに切り替わった。以前世良はこの曲を「いいッスね」と言ったけれど、堺は気付いている。それが世良の、『大人ぶりっこ』だということに。
「メシ、外で食いたいか?」
「え!? あ、あの……いいッス」
堺が右の助手席を向いて尋ねれば、世良はなぜかモジモジと俯きながらそう答えた。別に腹が減っているなら素直に食いたいと言えばいいし、そうでないならそう言えばいいのだけれど、なぜはにかむのか。 いつもは驚くくらいにやかましい世良がそんなふうに遠慮するのを、はじめ堺はひどく不思議に思ったものだ。今では、それが世良の“素”なのだとわかる。いつもやかましいのも素、こうやってはにかむのも素。変なやつなのだ。
世良と堺とは、もう半年の付き合いになる。付き合い、というのは――そういう意味での“付き合い”だ。上司と部下でもなく、年の離れた友人でもなく。
「……じゃあ、まっすぐ帰るか」
青信号。はい、と小さな声が聞こえてくる。まだ、俯いているのだろうか。少し視線を反らせば見えるはずなのだけれど、あえて堺は夜道だけをじっと見つめた。それは、また後でじっくり見ればいい。家に帰って何をするか、その約束はしないまま、堺は車を走らせる。
はじめに惹かれた――というほどでもないが、いいな、と思ったのは、底抜けの明るさだとか、素っ頓狂なくらいの頭の悪さだとか、クルクルとよく動くオモチャみたいな小さな身体だとか――要するに、店に来る客たちと同じ部分だった。その時点で、堺にとって世良は「ちょっとおもしろいただの部下」程度に過ぎなかったということだ。
印象が変わったのは、世良にホスト転向の話を持ちかけたときだ。正直のところ堺は、世良が話を断るだなんて夢にも思っていなかった。ホストになりたいと思いながらも、ボーイやウエイターとして入店するスタッフは意外と多い。例えそうでなかったとしても、裏方よりはホストのほうが下っ端であろうと待遇は良いのだ。
けれど世良は、いつも笑っているか叫んでいるかの顔をふ、と小さく歪めて――『俺、いいです。やめときます』。そう言った。
未だに堺は、世良がそう言った理由を知らない。推測はいくつもしたが、どれが正解かなどわかりはしない。
ただ、それがきっかけで世良は堺にとって、より“おもしろい”、かつそれだけではない存在となり、仕事帰りに食事に行ったり、休日に遊びに出かけたり、家に招いたりするようになり――果てはこういう仲になっている。
今では堺は、そういう、客たちの知らない世良の顔を知っている。意外とナーバスなところだとか、落ち込むと毛布に包まりたがるところ、照れると俯いて唇を尖らせるところ……。そして、それらすべてが恐ろしいくらいに“かわいい”ということ。
どこまでも、世良は無邪気なのだった。だから、堺に目線を合わせようとして背伸びをするのだ。その行為自体が子供じみているのだけれど、堺的には構わないどころかむしろ良い、とすら思える。
(俺も思考がオッサンになったな……)
最近堺は、舞妓を囲う金持ちの爺さんの気持ちが、ややわかりつつある。
玄関を開け無意識に小さな背中を押すと、その背中がくるりと振り向いて堺と真正面から向き合った。思わず何の反応もできずにいると(堺は驚くとむしろ無表情になるタイプだ)、短めでぽってりした子供のような指が堺の服を引っ張り玄関に引っ張り込んだ。
別に特別強い力で引きずられたわけでもなんでもないのだけれど、素直に堺は敷居を跨ぎ、後ろ手に扉を閉め扉に鍵を掛けた。服を引っ張ったのと同じ指が頼りなく堺の胸に手を置き、精一杯の背伸びのせいで震える顔が、堺にぶつかってくる。ままごとのようなキスだ。
最初から一貫して、世良のキスはこんなふうなのだった。堺の部屋で、酒を飲んで、世良が最近はまっているとか言う海外ドラマのDVDを6時間ぶっ続けで見た後で、お互いうつらうつらとしながら。
犬がじゃれつくようなキスをしてくるくせに、切羽詰って、泣き出しそうな顔をしている世良は、なんだか幻を見ているかのように堺の脳を痺れさせ、気が付けば相手の唇を貪っていたのは堺のほうだった。
今もそうだ。
「ん……は、ぅん……」
未だに息継ぎの下手な世良の目尻は、少し涙で濡れている。それを指で拭いながら堺が顔を離せば、やっぱり世良は赤くなりながら俯いて、唇を尖らせている。今度は堺も、それを真正面から見つめている。
「……煙草、吸いました……?」
「あー、今日はちょっと、な」
「冷蔵庫に、印付けとかなきゃ」
「あとでな」