そのレンズは曇らない
「堺さん、はやくはやくー」
「うるせえな、ちょっと黙って待ってろ」
そう言って鏡を覗き込む堺さんは、少し眉間に皺を寄せていてますますカッコイイ。いつも無愛想な堺さんだけれど、俺はその仏頂面の下があったかくて優しいって知ってるから全然問題ない。むしろ、俺のほかは誰も知らなくていいくらいだ。
きゅ、と皺を深めて、目を見開きながら堺さんは自分の瞳にそっと指を当てる。
あの薄っぺらでペラペラした奴らは気に食わないけど、あいつらを外すときの堺さんの顔はめちゃくちゃカッコイイのだ。俺はぼうっと堺さんの顔を見上げて、ああ早くあの顔に乗っかっりたい、なんて恥ずかしいことを考えたりする。
外されたコンタクトレンズは堺さんの手の平に収まって、洗浄液でゆるゆると洗われている。くそっ、気持ちよさそうな顔して、むかつく! お前らなんて、2週間の使い捨てなんだからな。堺さんの目を乾燥させやがって!
堺さんは優しいから週イチで俺を専用の液に浸けて洗ってくれるけれど、コンタクトレンズどもにまで優しいのは俺としてはちょっと不満だ。まあ、それが堺さんのいいところではあるんだけど!
「堺さん、俺、くもったんス! 洗ってよー」
「仕方ねえなあ」
ふ、と笑って俺を持ち上げる堺さんの指はそっと優しい。壊れないように、壊れないように――ってそう思っててくれたらいいな、っていうのは俺の妄想だけど、その指先は間違いなくあたたかなのだ。
堺さんは洗面器を、ほんのちょっとお湯を足したぬるま湯で満たして、ゆっくりと俺をその中に浸した。ああ、気持ちいい。温泉みたいだ……。
俺は堺さんと一緒にお風呂に入ることは出来ないけど、いいんだ、こうやってほっこりしながら見上げるその先に、俺を見下ろしてる堺さんの顔があるから、それで。
「上げるぞ」
「はーい」
ちゃぷりと音を立てて、風呂上りの俺は湯気を立ててる……わけじゃないけど、水も滴るいい男って言うでしょ、堺さん。なんてニコニコしてたら、「バーカ」って布で覆われる。ちょ、堺さん、それってどんな顔して言ったの!?
口は悪いけれど、俺を包んでる布はすっごく柔らかくて、拭き方も丁寧なんだ。堺さんは、高級なケーキでも持つみたいにして俺のことを包んでくれる。大好きだ。
「ふあー、きもちいいっすー……」
「変な声出すなよ」
「だ、だって」
困ったやつだお前は、なんて言いながら、堺さんの口調は笑ってる。ああ、その笑顔を見られたらいいのに。
「よし、おわり」
そう言って布がさっと取られて、俺は堺さんの顔の上へ。ああ、今日も堺さんの笑顔、見られなかったなあ。
それから堺さんは台所に立って、ごはんを作る。トントントン、ってまな板をじっと見つめる堺さんに合わせて俺も真剣だ。堺さんが目測を誤らないように、しっかり顔にしがみつく。鍋をかき混ぜるときには白い湯気がもうもうと俺にかかって、「うわあ」なんて言っていたら堺さんは笑いながら俺を拭いてくれた。……あーあ、また、曇ってて堺さんの笑顔、見られなかった。
少し行儀が悪いけど、堺さんはごはんを食べながらテレビを見る。
サッカー選手の堺さんが見るのは、いつもサッカーの試合だ。なんと、堺さんが出ているときもある。全部が全部じゃないけど。でも、緑の芝生の上を駆け抜ける堺さんは最高にかっこよくて、俺はついテレビの画面に見入ってしまってよく怒られるのだった。
ごはんを食べ終わったら、洗い物をして、またもう少しテレビ。
テレビじゃなくて雑誌や本を読むときもある。堺さんは写真や絵がいっぱいの本を読むこともあるし、文字ばっかりの本を読むときもある。文字ばっかりの方は、俺は苦手だからものすごく頑張らなきゃいけない。気を抜くとつい眠たくなってきてしまうから……。
あ、あと音楽を聴くときもある。でも、これは俺の出番が無いから、ちょっと嫌いだ。
しばらくそうやって過ごしたあと、堺さんと一緒に洗面所へ。ここでもう一度、暫しのお別れだ。人間のお風呂に眼鏡は入ることができない。できるのかもしれないけど、曇って何も見えなくなるから全然意味がないのだ。
俺はあのいけすかないコンタクトレンズと隣同士に置かれて、「堺さんはやく!」って心の中で唱えながらじっと待つ。
***
俺が堺さんと出会って、もうすぐ1年になる。
堺さんと出会う前、俺は小さな眼鏡屋さんの平べったい台の上に、色違いの奴らと一緒くたに並べられた安売りの眼鏡だった。お手ごろ価格とポップなカラーが売り。それが俺だ。
俺より1段高くなったところには軽くて丈夫な形状記憶眼鏡たち。その更に上には、芸能人のモデル付きのブランド眼鏡たち。俺には科学の力も無いし、ブランドの力もない。だからせめて、元気良くアピールしよう……ていうのが信条だったんだけど、俺はなかなか売れなかった。今思えば、元気が良すぎたのかもしれない。ただでさえ俺は、ビビッドオレンジなんて明るすぎるカラーだし。
だから堺さんが店に入ってきてその渋い落ち着いた声を聞いたとき、俺は「ああ、この人はきっと俺に興味無いんだろうな」って、耳を澄ませば微かに聞こえる表通りの物音をじっと聴いていた。
サラリーマン、大学生、おじいちゃんおばあちゃん、中学生、おばちゃん。この世界にはいろんな人がいて、いろんな眼鏡をかけているのだそうだ。
(俺もいつか、誰かの顔に乗っかって街を見たいなあ……)
俺に入っているのはディスプレイ用のプラスチック板だから、自分の目ではほとんど何も見えない。ほんの2メートル先には通りに面した大きな大きな窓があるけど、うすぼんやりした影が見えるだけだ。時々やってくる現役の眼鏡たちから漏れ聞くくらいでしか世間のことは知らないけど、でも、きっと、いつか。
『お客様、眼鏡をお作りになるのは初めてですか?』
『ああ、はい』
俺がぼんやりしていると、カウンターの方から店員のお姉さんの声が聞こえてきた。どうやらさっき入ってきたお客さんと話しているみたいだ。
(へえ……珍しいな。大人の人だったのに。老眼鏡、って年でもなさそうだったしな……)
とりあえず、俺には関係の無い話だ。
俺を手に取るのは、いつも中学生や高校生の、元気の良さそうな子たちと決まっていた。「これなんていいんじゃない?」って、ちょっと乱暴だけれど手にとって――でも、鏡を覗き込むと皆、「ちょっと派手かな」、なんて。
昨日の子、結構似合ってたと思うんだけどな……まあ、紫の奴の方が、確かに俺よりもほんのちょっと似合ってたけど。
とりあえず、やっぱり俺の出番は無さそう。
ほんの少しだけれど、お姉さんが視力検査をしているらしい声が聞こえてきた。右、左。上。下。斜め右。な、き、う、し、け、め……。
……なんか、落ち着く声だな。
その日は暖かな春の日で、気が付いたら俺はうとうととまどろみはじめていた。いつもピイピイ鳴いているスズメの子も、今日は静かだ。昼寝でもしているのかな。
俺も、ちょっと眠ろう。おやすみなさい……。
『これなんていかがでしょう。広告では、ジョニー・デップが掛けているんですよ』
『いや、いいよ。俺、ジョニー・デップじゃねえし……』
「うるせえな、ちょっと黙って待ってろ」
そう言って鏡を覗き込む堺さんは、少し眉間に皺を寄せていてますますカッコイイ。いつも無愛想な堺さんだけれど、俺はその仏頂面の下があったかくて優しいって知ってるから全然問題ない。むしろ、俺のほかは誰も知らなくていいくらいだ。
きゅ、と皺を深めて、目を見開きながら堺さんは自分の瞳にそっと指を当てる。
あの薄っぺらでペラペラした奴らは気に食わないけど、あいつらを外すときの堺さんの顔はめちゃくちゃカッコイイのだ。俺はぼうっと堺さんの顔を見上げて、ああ早くあの顔に乗っかっりたい、なんて恥ずかしいことを考えたりする。
外されたコンタクトレンズは堺さんの手の平に収まって、洗浄液でゆるゆると洗われている。くそっ、気持ちよさそうな顔して、むかつく! お前らなんて、2週間の使い捨てなんだからな。堺さんの目を乾燥させやがって!
堺さんは優しいから週イチで俺を専用の液に浸けて洗ってくれるけれど、コンタクトレンズどもにまで優しいのは俺としてはちょっと不満だ。まあ、それが堺さんのいいところではあるんだけど!
「堺さん、俺、くもったんス! 洗ってよー」
「仕方ねえなあ」
ふ、と笑って俺を持ち上げる堺さんの指はそっと優しい。壊れないように、壊れないように――ってそう思っててくれたらいいな、っていうのは俺の妄想だけど、その指先は間違いなくあたたかなのだ。
堺さんは洗面器を、ほんのちょっとお湯を足したぬるま湯で満たして、ゆっくりと俺をその中に浸した。ああ、気持ちいい。温泉みたいだ……。
俺は堺さんと一緒にお風呂に入ることは出来ないけど、いいんだ、こうやってほっこりしながら見上げるその先に、俺を見下ろしてる堺さんの顔があるから、それで。
「上げるぞ」
「はーい」
ちゃぷりと音を立てて、風呂上りの俺は湯気を立ててる……わけじゃないけど、水も滴るいい男って言うでしょ、堺さん。なんてニコニコしてたら、「バーカ」って布で覆われる。ちょ、堺さん、それってどんな顔して言ったの!?
口は悪いけれど、俺を包んでる布はすっごく柔らかくて、拭き方も丁寧なんだ。堺さんは、高級なケーキでも持つみたいにして俺のことを包んでくれる。大好きだ。
「ふあー、きもちいいっすー……」
「変な声出すなよ」
「だ、だって」
困ったやつだお前は、なんて言いながら、堺さんの口調は笑ってる。ああ、その笑顔を見られたらいいのに。
「よし、おわり」
そう言って布がさっと取られて、俺は堺さんの顔の上へ。ああ、今日も堺さんの笑顔、見られなかったなあ。
それから堺さんは台所に立って、ごはんを作る。トントントン、ってまな板をじっと見つめる堺さんに合わせて俺も真剣だ。堺さんが目測を誤らないように、しっかり顔にしがみつく。鍋をかき混ぜるときには白い湯気がもうもうと俺にかかって、「うわあ」なんて言っていたら堺さんは笑いながら俺を拭いてくれた。……あーあ、また、曇ってて堺さんの笑顔、見られなかった。
少し行儀が悪いけど、堺さんはごはんを食べながらテレビを見る。
サッカー選手の堺さんが見るのは、いつもサッカーの試合だ。なんと、堺さんが出ているときもある。全部が全部じゃないけど。でも、緑の芝生の上を駆け抜ける堺さんは最高にかっこよくて、俺はついテレビの画面に見入ってしまってよく怒られるのだった。
ごはんを食べ終わったら、洗い物をして、またもう少しテレビ。
テレビじゃなくて雑誌や本を読むときもある。堺さんは写真や絵がいっぱいの本を読むこともあるし、文字ばっかりの本を読むときもある。文字ばっかりの方は、俺は苦手だからものすごく頑張らなきゃいけない。気を抜くとつい眠たくなってきてしまうから……。
あ、あと音楽を聴くときもある。でも、これは俺の出番が無いから、ちょっと嫌いだ。
しばらくそうやって過ごしたあと、堺さんと一緒に洗面所へ。ここでもう一度、暫しのお別れだ。人間のお風呂に眼鏡は入ることができない。できるのかもしれないけど、曇って何も見えなくなるから全然意味がないのだ。
俺はあのいけすかないコンタクトレンズと隣同士に置かれて、「堺さんはやく!」って心の中で唱えながらじっと待つ。
***
俺が堺さんと出会って、もうすぐ1年になる。
堺さんと出会う前、俺は小さな眼鏡屋さんの平べったい台の上に、色違いの奴らと一緒くたに並べられた安売りの眼鏡だった。お手ごろ価格とポップなカラーが売り。それが俺だ。
俺より1段高くなったところには軽くて丈夫な形状記憶眼鏡たち。その更に上には、芸能人のモデル付きのブランド眼鏡たち。俺には科学の力も無いし、ブランドの力もない。だからせめて、元気良くアピールしよう……ていうのが信条だったんだけど、俺はなかなか売れなかった。今思えば、元気が良すぎたのかもしれない。ただでさえ俺は、ビビッドオレンジなんて明るすぎるカラーだし。
だから堺さんが店に入ってきてその渋い落ち着いた声を聞いたとき、俺は「ああ、この人はきっと俺に興味無いんだろうな」って、耳を澄ませば微かに聞こえる表通りの物音をじっと聴いていた。
サラリーマン、大学生、おじいちゃんおばあちゃん、中学生、おばちゃん。この世界にはいろんな人がいて、いろんな眼鏡をかけているのだそうだ。
(俺もいつか、誰かの顔に乗っかって街を見たいなあ……)
俺に入っているのはディスプレイ用のプラスチック板だから、自分の目ではほとんど何も見えない。ほんの2メートル先には通りに面した大きな大きな窓があるけど、うすぼんやりした影が見えるだけだ。時々やってくる現役の眼鏡たちから漏れ聞くくらいでしか世間のことは知らないけど、でも、きっと、いつか。
『お客様、眼鏡をお作りになるのは初めてですか?』
『ああ、はい』
俺がぼんやりしていると、カウンターの方から店員のお姉さんの声が聞こえてきた。どうやらさっき入ってきたお客さんと話しているみたいだ。
(へえ……珍しいな。大人の人だったのに。老眼鏡、って年でもなさそうだったしな……)
とりあえず、俺には関係の無い話だ。
俺を手に取るのは、いつも中学生や高校生の、元気の良さそうな子たちと決まっていた。「これなんていいんじゃない?」って、ちょっと乱暴だけれど手にとって――でも、鏡を覗き込むと皆、「ちょっと派手かな」、なんて。
昨日の子、結構似合ってたと思うんだけどな……まあ、紫の奴の方が、確かに俺よりもほんのちょっと似合ってたけど。
とりあえず、やっぱり俺の出番は無さそう。
ほんの少しだけれど、お姉さんが視力検査をしているらしい声が聞こえてきた。右、左。上。下。斜め右。な、き、う、し、け、め……。
……なんか、落ち着く声だな。
その日は暖かな春の日で、気が付いたら俺はうとうととまどろみはじめていた。いつもピイピイ鳴いているスズメの子も、今日は静かだ。昼寝でもしているのかな。
俺も、ちょっと眠ろう。おやすみなさい……。
『これなんていかがでしょう。広告では、ジョニー・デップが掛けているんですよ』
『いや、いいよ。俺、ジョニー・デップじゃねえし……』
作品名:そのレンズは曇らない 作家名:ちよ子