「枇杷余談」
その日も雨が降っていた。
激しい雨音が屋根を叩く音を聞きながら、秀吉は半兵衛が器用に枇杷の皮を剥いていくのを眺めていた。
産毛に包まれているせいか、枇杷の実はその深緑の葉の内にあってもどこかぼんやりとして見える。それが半兵衛の白い手の中で剥かれる内に、見る間に瑞々しい輝きを放つようになるのだ。
「ほら、剥けたよ秀吉」
そう言って掌に乗せられる枇杷の実は、まるで露に濡れる宝玉のようだ。先刻まではあのようであったのに、と秀吉は籠の中の枇杷と、己の手の上のそれを見比べた。
半兵衛が城下でもらってきたものだった。
「今年は粒の大きいのが良く採れたそうだよ。稲も順調に育っている」
「良き報せだな」
「うん、この調子で秋まで続いてくれるといいね」
天気のことだけはどうにもならないから、と半兵衛は苦笑した。
半兵衛の才を賞する言葉に、「今孔明」というものがある。その元となった中国の大軍師・諸葛孔明は、赤壁の戦いにおいて風を操り、自軍に勝利をもたらしていたと言われているが、それは真実とは違う。
孔明はただ、季節風を把握していただけだ。どんな天才軍師であろうと、日照りを止めることはできないし、氾濫する川を鎮めることはできない。しかしそれを「お天道様の機嫌次第」と諦めてしまうようでは、国を統べることなどできはしないだろう。
昨年は半兵衛の緻密な調査の元、大掛かりな治水工事を行った。秀吉の巨大な権力があればこそ、可能となった大工事である。その効果が計算どおりに上がれば、領民たちは水害をおそれることもなく穏やかに暮らすことができるはずだ。秋には例年以上に豊かな実りを手に入れることもできる。
食料がなくては軍は動かぬし兵は育たぬ。国を統べるにしろ、海の向こうを目指すにしろ、決してそれを忘れてはならぬ。そう、これも「富国強兵」の大切な一手だ。
この国を強くするためならば、我は天すら制してみようぞ。秀吉は本気でそう考えていた。
その思索に、しばし気をとられていたらしい。
「……どうしたんだい、秀吉」
気付けば半兵衛が、手を止めて秀吉の顔を覗き込んでいた。
「そんなに難しい顔をして。もしかして、まだ若いのにでも当たったかい? 一番甘そうなのを選んだんだけれど」
「ああ、いや、そうではない」
「それなら良かった」
丹精な顔に浮かんだ戸惑いを艶やかな笑みに塗り替えて、半兵衛は新しく剥いた枇杷の実を秀吉の掌に乗せた。それを秀吉が口に運ぶのを見ながら、また次々と枇杷を剥き始める。
今度は秀吉が困惑する番だった。半兵衛は我に一体どれだけの枇杷を食べさせるつもりだろうか。
「半兵衛」
「なんだい秀吉?」
「お前は食べぬのか」
「君が残した分で充分だよ。僕にはひとつふたつあればいい」
「待て半兵衛」
秀吉は慌てて半兵衛を止めた。
「お前は我に、この籠ひとつ空にしろと言うのか」
確かに枇杷は嫌いではないし、胃袋の方も巨体に見合って大きい秀吉ではあるが、それでも籠ひとつ分は多すぎる。
「我もそれほどは食わぬぞ」
「そうかい?」
「我は充分味わった。お前も食え。残りは小姓衆にでもくれてやるといい」
「わかったよ。後で佐吉と紀之助が書を借りに来ることになっているから、その時にでも持たせよう」
「……お前も食べるのだぞ」
秀吉が念を押したのには理由がある。半兵衛はあまり体が丈夫ではなく、食も細い。秀吉から見れば小鳥の餌程度の量を口にして、箸をおいてしまうのが常だ。それではますます弱るばかりではないか、と思ってしまう。
枇杷のいくつかでは足しにもならぬだろうが、もう少し何か食べよと思うのだ。
「うん、後でいただくよ」
「そのようなことを言って、全て佐吉らにやってしまうつもりだろう?」
枇杷の汁を拭おうと、懐紙を広げていた半兵衛の手が止まる。どうやら図星であったらしい。
「今、ここで食べよ」
そう促すと、半兵衛は珍しくばつの悪い顔をした。まさか自分の意図を秀吉に見抜かれてしまうとは思っていなかったらしい。
実際、腹も空いていないのだろう。どうしたものかという顔をしているのが面白く、秀吉はさらに半兵衛を弄った。口で半兵衛を負かせる機会など滅多にない。これほど愉快なことはなかろう。
「今度は我が剥いてやろうか?」
「わかった、わかったから止めてくれ秀吉」
秀吉が身を乗り出して籠に手を伸ばそうとしたところで、とうとう半兵衛が白旗を揚げた。
「ちゃんと自分で食べるから止めてくれ。子供じゃないんだから」
「その子供のようなことを我にしたのはお前だ」
「君はいいんだよ。それに、君を子供扱いしたつもりなんてない」
いやどう見ても子供のように扱われていた気がするのだが、と思う秀吉の手を、半兵衛が掴んで引き寄せる。いくつもの枇杷の汁で濡れた掌を、懐紙で拭おうとしてくれているらしい。
やはり子供のような扱いをしているではないか、と秀吉が言いかけた時だった。
激しい雨音が屋根を叩く音を聞きながら、秀吉は半兵衛が器用に枇杷の皮を剥いていくのを眺めていた。
産毛に包まれているせいか、枇杷の実はその深緑の葉の内にあってもどこかぼんやりとして見える。それが半兵衛の白い手の中で剥かれる内に、見る間に瑞々しい輝きを放つようになるのだ。
「ほら、剥けたよ秀吉」
そう言って掌に乗せられる枇杷の実は、まるで露に濡れる宝玉のようだ。先刻まではあのようであったのに、と秀吉は籠の中の枇杷と、己の手の上のそれを見比べた。
半兵衛が城下でもらってきたものだった。
「今年は粒の大きいのが良く採れたそうだよ。稲も順調に育っている」
「良き報せだな」
「うん、この調子で秋まで続いてくれるといいね」
天気のことだけはどうにもならないから、と半兵衛は苦笑した。
半兵衛の才を賞する言葉に、「今孔明」というものがある。その元となった中国の大軍師・諸葛孔明は、赤壁の戦いにおいて風を操り、自軍に勝利をもたらしていたと言われているが、それは真実とは違う。
孔明はただ、季節風を把握していただけだ。どんな天才軍師であろうと、日照りを止めることはできないし、氾濫する川を鎮めることはできない。しかしそれを「お天道様の機嫌次第」と諦めてしまうようでは、国を統べることなどできはしないだろう。
昨年は半兵衛の緻密な調査の元、大掛かりな治水工事を行った。秀吉の巨大な権力があればこそ、可能となった大工事である。その効果が計算どおりに上がれば、領民たちは水害をおそれることもなく穏やかに暮らすことができるはずだ。秋には例年以上に豊かな実りを手に入れることもできる。
食料がなくては軍は動かぬし兵は育たぬ。国を統べるにしろ、海の向こうを目指すにしろ、決してそれを忘れてはならぬ。そう、これも「富国強兵」の大切な一手だ。
この国を強くするためならば、我は天すら制してみようぞ。秀吉は本気でそう考えていた。
その思索に、しばし気をとられていたらしい。
「……どうしたんだい、秀吉」
気付けば半兵衛が、手を止めて秀吉の顔を覗き込んでいた。
「そんなに難しい顔をして。もしかして、まだ若いのにでも当たったかい? 一番甘そうなのを選んだんだけれど」
「ああ、いや、そうではない」
「それなら良かった」
丹精な顔に浮かんだ戸惑いを艶やかな笑みに塗り替えて、半兵衛は新しく剥いた枇杷の実を秀吉の掌に乗せた。それを秀吉が口に運ぶのを見ながら、また次々と枇杷を剥き始める。
今度は秀吉が困惑する番だった。半兵衛は我に一体どれだけの枇杷を食べさせるつもりだろうか。
「半兵衛」
「なんだい秀吉?」
「お前は食べぬのか」
「君が残した分で充分だよ。僕にはひとつふたつあればいい」
「待て半兵衛」
秀吉は慌てて半兵衛を止めた。
「お前は我に、この籠ひとつ空にしろと言うのか」
確かに枇杷は嫌いではないし、胃袋の方も巨体に見合って大きい秀吉ではあるが、それでも籠ひとつ分は多すぎる。
「我もそれほどは食わぬぞ」
「そうかい?」
「我は充分味わった。お前も食え。残りは小姓衆にでもくれてやるといい」
「わかったよ。後で佐吉と紀之助が書を借りに来ることになっているから、その時にでも持たせよう」
「……お前も食べるのだぞ」
秀吉が念を押したのには理由がある。半兵衛はあまり体が丈夫ではなく、食も細い。秀吉から見れば小鳥の餌程度の量を口にして、箸をおいてしまうのが常だ。それではますます弱るばかりではないか、と思ってしまう。
枇杷のいくつかでは足しにもならぬだろうが、もう少し何か食べよと思うのだ。
「うん、後でいただくよ」
「そのようなことを言って、全て佐吉らにやってしまうつもりだろう?」
枇杷の汁を拭おうと、懐紙を広げていた半兵衛の手が止まる。どうやら図星であったらしい。
「今、ここで食べよ」
そう促すと、半兵衛は珍しくばつの悪い顔をした。まさか自分の意図を秀吉に見抜かれてしまうとは思っていなかったらしい。
実際、腹も空いていないのだろう。どうしたものかという顔をしているのが面白く、秀吉はさらに半兵衛を弄った。口で半兵衛を負かせる機会など滅多にない。これほど愉快なことはなかろう。
「今度は我が剥いてやろうか?」
「わかった、わかったから止めてくれ秀吉」
秀吉が身を乗り出して籠に手を伸ばそうとしたところで、とうとう半兵衛が白旗を揚げた。
「ちゃんと自分で食べるから止めてくれ。子供じゃないんだから」
「その子供のようなことを我にしたのはお前だ」
「君はいいんだよ。それに、君を子供扱いしたつもりなんてない」
いやどう見ても子供のように扱われていた気がするのだが、と思う秀吉の手を、半兵衛が掴んで引き寄せる。いくつもの枇杷の汁で濡れた掌を、懐紙で拭おうとしてくれているらしい。
やはり子供のような扱いをしているではないか、と秀吉が言いかけた時だった。