「枇杷余談」
「ん……」
半兵衛が動かしたのは、懐紙を掴んだ右手ではなかった。銀糸のような髪に包まれた頭部だ。
やわらかく、ぬるいものが秀吉の掌に触れる。
半兵衛の舌だ、と理解するまでには一瞬の間が必要だった。秀吉の手を濡らす果汁を、半兵衛が舐めとっているのだ。
「ッ!?」
舌が動く度に、ぴちゃ、ぴちゃという音がする。それが閨で立てる水音を思わせて、秀吉はぞくりと背を震わせた。
火急の報せでもない限り、秀吉の私室を訪れる者は滅多にいない。しかも今日のような激しい雨音の中では、たとえ隣室に控える者があったとしても、部屋の様子に聞き耳を立てることもできなだろう。だからこのような姿が誰かに知られることはない。
しかしまだ、空も明るい時間である。人に見られることがないにしても、このような時間から半兵衛が大胆な戯れを仕掛けてきたことに虚を突かれ、秀吉はそれを拒むことも、己の手に吸い付く半兵衛を引きはがすこともしばし忘れた。
その間にも、半兵衛の舌は滑らかに動き回る。掌から指の間を伝い、音を立てて指先を吸う。短い親指などは根元まで呑まれ、舐めまわされた。時折、「は……」と掠れた息を継ぐのがとてつもなく艶かしい。
半兵衛はしばらくその作業に没頭していたが、やがて甘い果汁を全て舐めとってしまったのだろう。
「御馳走様。美味しかったよ」
上げた顔の唇が艶光っているのが、また恐ろしい色香を放っていた。
だが、声も出せないままの秀吉に対して、半兵衛の方はさらりとしたもので、「僕はもう充分味わせてもらったから、後は佐吉と紀之助にあげてしまおうね」などと笑っている。お前もちゃんと食え、などという話が続けられそうな雰囲気ではない。
上手くあしらわれてしまったものよ、と秀吉は憮然として腕を組んだ。半兵衛は濡れた唇と己の指を懐紙で拭い、何事もなかったかのような顔をして、雨に打たれる庭の深緑を眺めている。
「それにしても、長い雨だね」
声音さえも素っ気なかった。先程の淫らさを感じさせるものなど、一欠けらすら残していない。まるでずっとそういう話をしていただけと言うかのように、再び雨のことなど語り出す。
「田畑のためにはこれぐらいの雨があった方がいいけれど、そろそろ晴れ間も見たいと思うよ」
たぶんそれは、半兵衛にとっては何気ない言葉だったのだろう。しかしその言葉に、やけに不吉なものを感じて秀吉は半兵衛の視線を追った。
篠突く雨が降り続いている。いくら治水を行って水害を治めても、雨そのものを降り止ませることはできない。重い雲を切り裂いて、一時の晴れ間を覗かせることもできない。摘み取られた枇杷の実を木に戻すことすら、秀吉の意のままにはならないのだ。
それが天の力、人には抗えぬ天命と言うもの――しかしなぜ、今そのことに思い至ったのか。
それが異様に不吉な予感に思えて、秀吉は拳を強く握り締めた。
望まぬ未来を、握り潰すように。