矛盾
これは異常だと判っていた。
これが異常だと解っていた。
分かっていながら、でも俺は自分自身の衝動を止められなかった。
折原臨也は焦っていた。
油断していたのだ。今の状況についていけない自分に、そう言い聞かせた。
家のインターホンが鳴った。時間も時間だったので、信者の女の子かと思い警戒心皆無でドアを開けてみれば、池袋で上司と仕事中のはずである平和島静雄がつっ立っていた。しまったと思えど、後の祭り。コートの中に仕舞ったままであったためナイフでの応戦も出来ず、ドアを閉める以外に何もできなかったのだが、それさえも静雄に足一つで阻まれた。無理矢理ドアを蹴り開け、静雄は臨也の腕を掴み、足を払い、引きずりながら臨也の来た道をたどった。
――― まずいまずいまずい
体勢を立て直す隙も与えられず、臨也はリビングまで引きずられた。頭の中が、全身が警鐘を鳴らす。そして嫌な浮遊感が襲ったかと思えば、間もなくして衝撃が背中を襲った。ソファに投げられたのだと気付いた。
「ぐっ……」
さほど痛くは無いが、意図せず首が曲がり、苦しくて息が詰まった。そして息をつき起き上がる間も与えられず、静雄が臨也の上に跨り、両腕を掴まれ身体をソファに縫い付けられた。
「何?何なの?」
脚も膝を抑えられ上に上げることができなかった。普通ならここで殴られるなり蹴られるなり何らかの外傷を受けるはずだと思った。この静雄の一連の所作に違和感を覚え、臨也は静雄の顔を見た。それは『平和島静雄』でありながら、彼でなかった。サングラスの奥にある眼から、あの鋭い光が消えていた。鋭さは欠け、光は濁っていた。どう見ても普通じゃない。
「…ねぇ、シズちゃん」
呼びかけると、静雄は反応した。良かった、言葉は通じるようだ。臨也は少しだけ安心した。
「俺、何かしたかな?」
しかしその安心も束の間、静雄は臨也の手首を掴んでいる力が強くなった。指先が痺れ、手も全く動かせなかった。
「それとも、シズちゃんって、そっち系だったの?」
その痛みに顔を歪めながら、臨也はこの状況から脱出する方法を冷静に考えていた。別段静雄の目は欲情に塗れたものでもない。むしろ生気すら感じさせない、自分の大嫌いな目をしていた。とにかく拘束された四肢が解放されない限り、何もできない。無理に動かした所で静雄の力に敵うはずもない。
「臨也、俺はよ、てめぇが池袋に来ねえのは嬉しいんだ」
漸く静雄が喋った。しかし発された言葉はいつもの罵詈雑言ではなかった。ノミ蟲と、呼ばれなかった。
「……そう、だね、ここのところ新宿とか渋谷とかが多かったし」
顧みれば、一週間ほど池袋に顔を出していなかった。言った通り、ほとんど新宿や渋谷でことが済んでいた。何事もなく仕事がはかどり、臨也の方も池袋に顔を出した日より楽だった。
「というか、嬉しいなら別に来る必要ないよね?……何で来たの」
「てめぇがいつ何をどこでどうしているかを俺の知らないところでやってるのが気にくわねぇんだ」
「……は?」
気に食わないとはどういうことだ。そんな疑問が、脱出方法を考えていた臨也の思考を止めた。自分がいつ何をどこでどうしているかなんて静雄が気にする必要もなければ、全く関係のないことだ。むしろ自分が池袋に来ないことに素直に喜んでいればそれで良いだろうに。
全く言葉の真意を理解できていない臨也を余所に、静雄は続けた。
「一週間、そこには平穏があったんだ。でも、なんか物足りなかったんだよ」
臨也が池袋にいない。確かにそこには求めていた平穏があった。しかしあの日常に慣れ過ぎていた、溺れすぎていたために、静雄は普通でいるのがどことなく息苦しかった。自分で息の根を止めたわけでもないのに臨也が池袋に存在しないことが気持ち悪くて仕方がなかった。
「何?シズちゃんは俺のいない平穏を求めると同時に、俺のいる日常を求めているわけ?」
何その矛盾。馬鹿にもほどがあるだろう。そう臨也は目の前の静雄を笑ってやりたかった。笑ってやりたかったが、静雄が発した次の一言で、臨也は出来なかった。
「てめぇは俺の目の届くところにいなきゃいけねぇんだ」
「……いや本当、理解できないよ」
臨也は代わりに引き攣った笑いを浮かべた。何なんだその帰結は。静雄の目の届く範囲にいては自分の身の安全が保障されないじゃないか。マンションの場所を知られているだけでもいつ殴り込みに来るか分からないというのに。臨也には静雄がなにを言いたいのか全く分からなかった。
「シズちゃんさー、そんな訳の解らない発言をしに来ただけならさっさと帰ってくれない?俺はまだ仕事が残ってるし、君みたいな理解できない化け物を相手している時間なんて無いんだ」
「……つーわけで」
「って、人の話聞け」
「まずこれ、折っとくか」
「……え?」
静雄は臨也の手首に目を移していった。そこで、臨也は今静雄が自分に何をしようとしているのかに直感的に気付いた。気付いてしまった。臨也は初めて、静雄に対して恐怖を覚えた。今まで何度も怪我をしてきたが、殆どは意図せずしてできたものであった。
「パソコンとか、ナイフ使えないようにしておけばいいよな。そうすれば外に行かねぇし」
「ちょ、待った!なに人の腕折ろうとしているの。俺仕事ができなくなっちゃう、ってシズちゃんには関係ないか。あぁそうじゃなくて、シズちゃん今おかしいよね、正気じゃないよね!とにかく折るとかそういう暴力反対…そう、暴力反対!君だって嫌いだろう!」
仕事がどうとか以前に腕を折られるのは御免被りたい。とにかく静雄をどうにかしなくてはと、臨也は無理に体を捻り、静雄を自分の上から落とそうとした。しかし、
「嫌だ」
「ッ静雄!!」
静雄は加減していた力の制御を外し、手首を掴んだまま、てこの原理の要領で臨也の前腕を反らした。臨也の目には、割り箸を繊維に対し垂直に折るような感じに見えた。本当に軽かった。そして嫌な音が鳴り、臨也の前腕はあらぬ方向を向いた。
「ッ!!」
叫び声こそあげなかったが、臨也は痛みに身体を硬直させ、目には涙が滲んだ。その痛みは一度ならず、二度も襲った。臨也は上がりそうになった悲鳴をなんとか噛み殺した。ぐっと目を閉じたせいで涙が伝った。
両手が動かなくなったのを確認して、静雄はゆっくりと手を離した。手首は赤く青く、くっきりと手形がついていた。両手が解放されたことで、臨也は腹筋を使って跳ね起きた。
「んの、…野郎……」
臨也はぎり、と歯を軋むほどに噛み、静雄を睨んだ。幸いなことは、骨が砕けていなかったことだった。橈骨も尺骨も横に一線折れたようだった。しかし起き上ったところで反撃できるはずもなく、脈にならって波を打つ熱さに、臨也は静雄の胸に倒れ込んだ。
静雄は受け止めこそしたが、特に手を回すことも何もせず、ただ静かに笑った。そして次に臨也の足に手を掛けた。
* * *