いつかの寓話
『あの男は何を考えているのだ』『子供なんかにいれこんで・・・』『思えば先の戦争もあの男のせいで』『あの男がいなければ』『あの少年に与えているものを、世間に与えてくれれば生活は楽になるのに』『あの男が死ねばいいのに』『あの男さえいなければ戦争もなかった』『大体、あの男が世間に災いを呼んだんだ』
男は世間に、最初は幸福を与えたはずだった。
道具を作り、農作物を作る技術を与えた。家畜を作り、食べ物に不自由しない生活を与えた。
大体、そんな平和な生活を「退屈だ」と、「つまらない日常」だと言ったのは人間だった。そのつまらない日々からの脱却を望んだのはほかならぬ人間だったではないか。男は望まれたとおりに嵐を呼び天災を作り、火種を投げ戦争を起こした。
それを良いことだと思うつもりは男にも無い。
何しろ人の不幸を喜んで観察していたのは男自身でもある。だけど、それでも、この結果を選びとったのはあくまでも人間のはずだった。それなのに、人は男の存在そのものさえも否定しようというのだろうか。
なんと自分勝手なことだろうと思う反面、それでも本当にそれを望まれているのかと考えると、少年に与えるものが一つ見つかったような気がした。はたして、そんなもので彼は喜んでくれるのかわからないが。
男は、モノに埋もれた少年に、欲しいものはないかと訪ねる。
少年は相変わらず困ったように笑って、モノが欲しいわけではないのです、と答える。
そうかそうか、それならば、やっぱりこれしか無い。
男は切れ味の良い短剣を取り出すと、少年に微笑んだ。
「それなら、俺の命をあげよう」
男は、少年の目の前で鮮やかにその胸をついてみせた。
それは全く軽やかな、何の迷いもない動作だった。
少年はあっけに取られたようにその動きに魅入られ、そうして男が崩れ落ちたその音ではっと我に返ると、さっと顔色を変えてその体に寄り添う。
「臨也さん!」
驚くほど悲壮な声だった。
ああ、そうじゃないのに、これが最後の賭けだったのに。どうして、どうして笑ってくれない。
男は痛む胸を抑えながら、あふれる血の温度を感じながら、霞む視界に少年の涙を見た。
「何を・・・どうしてこんなことを!」
青ざめた少年が、男の傷口を抑えているその手に、自分の手を重ねる。ああ、血が付いていしまうよ、と小さく笑う男に、そんなことはどうでもいいんですと怒鳴りつけて。
「・・・どうして、泣くの、帝人君」
俺は君に笑って欲しいんだよ、あの時みたいに、優しく、笑ってくれたらいいなって、そればっかり考えているのに。
男は悲しそうに呟いて、血に濡れた指先を少年の頬に伸ばした。
あの時少年がしたように、そのやわらかな頬をそっと撫でる。
その白い頬に線を作る、自分の血。彼に残せたのはそれくらいなのではないかと思うほど、男はどうしようもなく悲しくて、心が抉られるように、痛んだ。
「待って、待ってください、今、お医者様を・・・!」
慌てて部屋を出て行こうとする少年の腕を掴んで、男は、泣き笑いのような表情でその顔を見上げた。
だんだんと力が抜けていく手のひらで、それでも彼に触れたかった。
「あのね、こんなことを、言ったら、君を・・・困らせるかも、しれないけれど」
ああ、どうしてだろう、声がかすれる。
視界も、どこからか歪んで、まるで、男の心のように。
「君のことが、すきなんだ」
男は生まれてから今まで、素直に自分の気持を声に出したことなど、数えるほどしかなかった。それも、こんなふうに好意ともなれば、さらに少ない。そんなのくだらないと思っていた。声など何の役にも立たないと、言葉は人を簡単に傷つけるものだから、少年に向けて発することが怖かった。それでも。
少年が、ボロボロと涙をこぼしながら微笑む。
それが男が待ち望んでいた笑顔。
柔らかで温かな、もう一度見たいと願った笑顔。
泣きながら微笑んだ少年が、有難う、と告げる。嬉しい、と。
たくさんの物を、少年に与えたつもりだった。お金、金銀宝石、服に武器、あらゆる装飾を、贅沢な家具を、広く立派な家を。
けれども結局どれ一つとして、少年を笑顔にはできなくて。それなら世間のみんなが欲しいという、己の命を差し出そうとしたけれど、少年は青ざめて酷くつらそうにして。
ならばもう、男に差し出せるものなど何も無いと思ったのに。
可笑しいね、と男は、痛みの中でぎこちなく微笑む。
結局君が一番喜んでくれたのは、ただの言葉だなんて。今まで苦心して探した高価なものや、美しいものや、貴重なもの、そんなものの中に君を埋める前に、声なんて、真っ先に気づくべきだったよね。
微笑んだ男に、少年が泣きながら頬を寄せる。ぎゅっと、傷付いた体を抱きしめる少年の体温がとても優しかった。
笑ってくれて、ありがとう。
だけどもう、眠くてたまらないんだよ。抱き返すことができなくてごめん。次に目覚めたとき、もしもその時もまだ、俺の側にいてくれるなら・・・。
男は、何もかもを「思うだけ」で作り出すことのできた。
男は、黒い髪に赤に近い目のすらりとした美男子で、この世に思い通りにならないことはなく、まるで神様気取りで世界を翻弄した。人間の苦しむ姿が好きだった。壊れていく過程が好きだった。あきずに何度も眺めては、子供のように笑って。
けれども男は、何でも作れたけれど、自分自身のためには何も作らなかった。男には欲しいものなど何もなかったので、作ることができなかったのだ。願いも、祈りも、何も知らなかった。だからこそ男は、神だった。
神だった男は、少年を愛して、神から人間へと落ちた。
男は目を閉じるその前に、生まれて初めて自分自身の純粋な祈りを口にする。
次に会えた時には、その笑顔で、俺の名前を呼んでくれないか。
これはここではないどこか、今ではないいつかの話。
少年の返事さえ聞かずに男は、ただ満足そうに微笑を浮かべたまま、綺麗に綺麗にまぶたを閉じた。
その、男のなめらかな頬を、ただ、少年の涙がこぼれて落ちた。