嗜好回路
ポケットからハンカチを取り出して口に噛ませてやると僅かだが表情が緩んだ。新しいガーゼに消毒液をだらだらと垂らし、それで耳たぶの裏表を挟み込む。シャツを掴む指の力を痛いほど感じながら、先ほどよりも心持ち早くカウントをした。3、2、1。一息にピンを引き抜くと耳たぶに開いた穴を濡れたガーゼで素早く覆う。極度の緊張状態からようやく解放された安堵と、熱を持ち脈打つ傷口から響く痛みに震える肩を抱き寄せ、あやすように背中を撫でてやった。
「お疲れ。よく頑張ったな」
慈しむように声を掛けると、応じて菊の腕がそろそろとアーサーの背に回される。噛んでいたハンカチを外したのか引きつった呼吸が耳元に聞こえ、それは首筋や脇腹やあるいは内腿に歯を立てた時に漏らす喘ぎよりもはるかに甘ったるくアーサーの心を満たしたのだった。
痛い、…ええすごく。沁みる、…とても。始めてやった時とさどっちのが痛かった、知りませんそんなこと。互いの心音が聞こえる距離で他愛もないウィスパーのやりとりを重ねて、息が整うのを待つ。頃合を見計らい、止血用のガーゼをゆっくり外して、開けたばかりのホールにピアスを取り付けてやった。小さな石が光る、まだ熱の引かない左耳の輪郭を指先でなぞり、結局それだけでは足らずに顔を寄せて唇で柔らかく食んだ。ふ、と鼻に抜ける吐息を漏らしながら菊もアーサーの左耳のピアスに触れてきた。
名残を惜しむようにもう一度触れるだけのキスを交わして、後始末を始める。手をつないで保健室を出たところで、下校時刻を告げる放送が薄暗い校内に響き渡った。下足室の大鏡の前で立ち止まったかと思うと、菊は髪を掻き揚げてみていた。今や一対を分けあう形になったピアスは元の持ち主の眼にあわせた萌える新緑の石で誂えてある。緩む頬を隠しもせず、アーサーは菊を後ろから抱きすくめて、鏡の中の黒瞳に外すなよと念を押した。
数日後、アーサーの右のホールを真球の黒玉が埋めていたというのはまた別の話である。