私の可愛い旦那様。
俺は柳生が好きだった。柳生は俺が望むようには俺のことを好きではなかった。柳生の極端な拒絶は、俺への友愛の裏返しだった。俺はその友人としての地位すら自分から崩した自分を呪った。友人でいられなくなってもいいとさえ自分を追い詰めた自分の気持ちを呪った。俺はこの世の俺と俺に関係するすべてを呪いながら柳生を愛しながら泣きながら笑いながら謝った。
ごめん、柳生。
お前を好きになってごめん。
柳生は答えなかった。俺は許されなかった。
その日柳生と別れ、それ以来一度も顔を合わせていない。
「ただいま」
玄関のドアをあけ、誰もいない部屋に声をかける。
「おかえりなさい」
柳生に言ってほしい言葉を自分で言った。
「おかえりなさい、仁王くん」
柳生。
柳生。
柳生。
柳生。
柳生。
柳生。
昔から今までずっとお前を愛している。
あの日、自分の欲望にかられてすべてを失った。友人でいられるだけでは満足できなかった。いつか必ず誰か知らない女と結婚する柳生を、笑顔で祝福することなどできないと思った。俺が柳生を見る気持ちの半分でも、そのさらに半分でもいい、柳生に持ってほしかった。たとえダブルスのパートナーであっても、柳生が完全には預けない心を、俺にだけは手渡してほしかった。柳生の中で、ほかの誰でも代わりにはなれないものになりたかった。俺は柳生に愛されたかった。たとえ一時でもそれがかなうのなら、一生その思い出だけで生きていけるとすら思った。
「柳生、ただいま」
俺は笑顔を浮かべて、洗面台の前に立った。髪質が違うのでああきっちりとはいかないが、乱れたところを少し手で整えれば、外見はかなり柳生に近くなる。
俺は笑顔を浮かべて鏡を見る。見ているのはその奥の、現実にはいない、俺に優しく微笑む柳生だ。
一度好きになったら、好きでない部分がなくなってしまった。顔も髪型も声も、出会ったときには理解しがたいと思った口調さえも、今はもうすべてが愛しくて仕方ない。
「仁王くん」
鏡の中の柳生は、笑顔を浮かべて俺を呼ぶ。
「遅かったですよ。お腹がすきました」
俺は聞こえるはずのない声を聞く。親しげに俺にわがままを言う柳生の声。もう二度と聞けないそれ。ずっと昔に、何回かだけ聞いたことのあるそれ。
「ああ、そうじゃな。何食う」
「何でもいいです」
「んー…パスタとかででええ?」
「作ってもらえるなら喜んで」
柳生は笑う。ので俺も笑った。
「柳生」
「はい?」
「好いとう」
柳生は少しのあいだ無表情に近い顔で俺を見つめて、そして「はい」と微笑んだ。
そのときに、俺は「ああ、もういいや」と、心の底から思ったのだ。
もういい。すべて、もういい。
不思議なことに、少し安心した気分だった。
柳生。お前が好きだよ。昔から今まで。お前のことが好きだから、もう決してお前には会わないよ。
本当の、お前には。
ポケットから携帯を取り出す。柳からだろう、着信とメールがいくつか入っていた。少しだけ寂しくなる。柳とはもう少し深い友人になりたかった。きっと彼は、友人としては最高の部類の人間だろうに。
洗面台の排水口に、銀のチェーンのついたゴムの栓をはめた。メールを読まないまま携帯をその上に置き、水を出してゆく。
さよならだ。すべてと。柳生以外の総てと。
この部屋には電話は引いていない。新しい携帯の番号は、昔の友人の誰にも教えない。これでいい。これでいいのだ、きっと。
「柳生」
あまりにためらいや後悔がないのがかえって怖かった。淡々と、俺は一体何をしているのだ?
すがるように顔を上げる。
鏡の中の柳生は、それでいいと言いたげに笑っていた。
そっと柳生は俺に言った。
「ねえ、仁王くん。これじゃあまるで、二人きりですね」
俺は笑った。眉が下がっていて泣きそうに見えた。
柳生は同じ顔で笑いながら、それでも迷いのない目で俺を見つめた。
「仁王くん」
ああ、柳生。
もっともっともっともっと俺の名前を呼んでくれ。
「柳生」
俺は応えた。鏡の向こうとこっちで俺たちはそっと、一生を誓うキスをした。