私の可愛い旦那様。
「俺はあのとき子供だった。今でも大人にはなれていないが…とにかくあのころは、思い返すのも怖いな。俺はそのころ、天狗になっていたんだ。データテニスだなんて得意ぶって、人を支配しているつもりでいた」
「へえ? そうだったん」
「ああ。自分で意識はしていなかったが、そういう意味合いがあったと思う」
柳は表情を変えるでもなく、さりげない口調で肯定した。けれどそれはおそらく、柳なりのポーズだろう。そんなことを、何の感情の動きもなく認められるほど柳のプライドは低くない。
「相手のどんな小さなクセや言葉尻まで捕らえては、分析してメモする。そんな俺を、お前は嫌っていたか、それか不意にうざったくなったのかな。「知りたがりの柳くん」という呼び方をはやらせたことがあった」
「……そんなことあったかのう」
俺はどうとでもとれるような笑い方をした。もちろん覚えていた。そのとき俺はどうしても、俺に勝っている柳を、なるべくひどく傷つけたくて、より柳の嫌いそうな言い回しで、みんなの前で言い放ったのだ。
自分が人に悪意を向けたことを思い出すと、冷や汗が出る。俺は柳に、何年も残るほどの傷をつけた。
「ああ。俺はそのとき怒った。でも本当は怒ったんじゃない、恥ずかしかったんだ。データを集めることで優位に立ち、人を支配しているつもりでいた自分が、実は相手を恐れ、怯えているからこそデータにすがり、優位に立とうとしていたんだと思い知らされた」
「そんなことなかよ」
柳はまた笑った。そんな嘘はいい、というふうでもあったし、そう言ってくれるのか、ありがとう、といったふうでもあった。
「みんなの前で、俺の小ささを暴かれた気がした。自分がとんでもなく間抜けに思えて、恥ずかしくてたまらなかった。本当に強いなら、小手先のデータなんていらないんだ。相手の弱点なんか知らなくても、力でねじ伏せることができる。弦一郎や、精市のようにな」
「そういえばお前さん、あの二人が好きじゃったな」
「ああ」
柳は、今度は無理をした様子なく笑った。
「すごく好きだった」
「そうか」
そういうふうに言えるのは、とてもいいことだな、と俺は思った。
「今でも連絡は、取ったりしとるんか?」
「ああ、お前以外は、みんなもっとひんぱんに連絡を取り合ったりしているんだ。お前だけ、学校を卒業したらぷっつり音信不通になって…」
「はいはい」
柳のお説教が始まった。懐かしいとは思いつつ、神妙に聞く気もなかったので、半分茶化すように相槌をうつ。何かが心にひっかかる気もしたが、気のせいだろうと流した。
柳はそれを許さなかった。
「はいはいじゃない。仁王。お前だけ連絡が取れないんだ」
「へえ」
「それは、なぜだ?」
「なぜって」
「誰からメールがきても返信もせず、たまにこうして捕まえても「忙しい」であまり長く時間を取ることはない。誰にも会うことなく、何をやっているんだ?」
「……」
なんだか嫌な予感がした。何が起こるのか、何を言われるのかは分からない。それでも、とても怖い予感がした。もうおしまいだ(おしまいかもしれない)。根拠ないくせに確信ばかりが嵐のようだった。
ダメだ。
ダメだ。
ダメだ。
今日、お前になんて会わなければよかった。こんなふうに、いつかお前にしたように、大勢の人間の前で暴かれるくらいなら。
本当のことを。
自分で知らなかった本当のことを。
自分では知らないと、思っていたかった、本当の、ことを。
「プライベートで何しとるかは関係ないじゃろ。充実しとるから昔の付き合いに時間を割けんのかもしれんし…」
「そんなことはない」
「お前に何がわかる?」
「充実しているようなら、わざわざ呼び出してまでこんなことを言ったりはしない」
「何を根拠に」
「お前のその姿は何だ?」
互いの言葉を遮りあうような舌戦は、柳の奇妙に強張った声で途切れた。
「…………」
「その、髪は何だ」
「いつまでも、銀でいるわけにいかんじゃろ」
俺は答えたが、虚勢だった。
俺は学校を卒業すると同時に髪を切り、茶色に染めた。その理由は、
「長さは」
「調理師に長髪はいらん」
「前髪は」
「同じ理由。きちんと分けただけじゃ」
「眼鏡は」
「目が悪くなったけえ」
その理由、は。
柳は、深くため息をついた。本当は何もかもわかっていると、そう思わせるに十分な重さがあった。
「その、今のお前の姿が、誰に見えるのかくらいは、自分で分かっているんだろう」
「…………」
「俺たちとなるべく関係しないようにしたって、逃げられるものか。自分からも、自分のしたことからも」
「知っとるんか!」
こらえきれなくなって聞くと、いいや、と本当かどうかわからない答えがかえってきた。
「何があったかは知らない。だが、お前がその姿を借りている男が関係していることだけは分かっている」
「……そうじゃろうな」
俺は柳の目を見た。とても残酷な気分だった。誰かを傷つけたかった。
たとえば自分を。二度と立ち直れないくらいに。
「連絡のとれないお前を、みんな心配している」
「柳生もか?」
真正面から見据えて問いかえせば、柳は一瞬ためらい、そしてためらってしまったことで、繕うことは無理だと判断したのだろう、無言でいることで消極的に否定した。
ほら、やっぱり。
俺は笑った。まったく楽しくはなかった。けれどある意味で、とても浮かれた気分だった。今ならビルの屋上からだって飛べそうだ。
「お前たちに何があった、と、俺は聞いていいのか」
「なんもない」
俺は答える気はなかった。
「仁王」
柳の声が、なんだかとても弱い、縋るようなものだな、と俺は思った。柳は傷ついている。おかしい、俺が傷つけようとしたのは俺のはずなのに?
「なんもないのがいけんのよ」
俺は立ち上がった。
「悪い、帰るわ」
これ以上一緒にいることに耐えられそうになかった。せっかく忘れていたのに。せっかく、せっかく自分の目をふさいだのに。久しぶりのメールに懐かしさが勝って、判断を誤った。
俺は二度と会うべきではなかった。過去に関係する誰にも。
高校を卒業するというとき、生まれて一度もなかったくらいの、泣き出しそうな緊張の中、死ぬほどの勇気を振り絞って柳生に告白し、
俺は拒絶された。
柔らかい、「友人としてしか見られない」などというものではなく、パートナーとして誰よりも近く親しい場所で過ごしてきた間、一度も見ることのなかった、嫌悪と恐怖に歪んだ顔で、俺にとっては死ぬよりも辛い言葉を投げつけられたあの日。
ずっとそんな目で自分を見てきたのかと柳生は吐き捨てた。俺は、異性に抱くべき気持ちを柳生に抱いてしまった自分を呪った。幾度も振り捨てようとしてできず、根を張るようにますます胸に深く根付いた柳生への思いを呪った。そして、拒絶されも否定されても、罵倒されてさえ、それでも柳生を好きだと思ってしまう自分を呪った。このまま死ねたらいいと思ったが、そうしたら柳生は自分へのあてつけだと思ってしまうのではないかと思うと怖くて、それもできなかった。