永訣の夢
「…?本田君、なぁに?」
「え!?あぁ、その…」
何かを言いかけてやめた本田にしっかり気付いたらしい獏良が、かけていた眼鏡を外して問いかけてくる。
さっきからダシに使ってばかりで悪いと思いながら、言い訳を賢治先生に縋ることにした。
「ホラ、えーっと…どの詩が好きなんだ?」
「…本田君には言ったって分かんないでしょ」
「そんなことねーよ!その本貸してくれれば…」
「ダメ。これ、図書室で借りてきた本だから」
「いいじゃねーか、ちょっとぐらい。失くさねーってば」
「ダメったらダメ。又貸し厳禁」
妙に冷たくあしらわれて、獏良が図書委員だったことを思い出した。確かに、委員が規則を破っては問題だろう。
獏良は、眼鏡ケースを木製の机の上でクルクル回している。いじけたような動作がやけに幼く見えて本田は少し笑いそうになったが、ふいに降りてきた沈黙が痛くてすぐ笑みを引っ込める。周りが雑音で満たされているから余計に、チクチクとする。
気まずくなってしまった空気を変えようと、本田は話を振った。
「じゃ、じゃあ…賢治のどこが好きなんだ?」
「好きっていうか…憧れ、かなぁ?」
「あっ…憧れ?もしかして、将来詩人になりたいのか!?」
「ううん、そういう意味じゃなくて」
大切な人の最期を看取れたことが、羨ましいなって思うんだ。
大きく響いたチャイムが、束の間の休息時間の終わりを告げる。
本田はポカンと獏良の顔を見つめた。何の話かさっぱり分からない。チャイムの音も耳に入らない。
ただ。戸惑う本田を同じく見返す、眼鏡越しではない獏良の瞳の奥に2つの大きな欠落を見た。
寂しい、哀しい、苦しい、そういう感情を全て超越してしまった“無”がそこにあった。
「ばく、ら…」
ようやく心の片鱗を見せてくれたのに、みっともなく掠れた声で名前を呼ぶことしか出来ない。
「だからね、本田君」
手に持ったケースから眼鏡を取り出し、獏良はゆっくり顔にかける。
「本田君は、僕に黙っていなくならないでね」
「………」
眼鏡をかけた獏良の瞳はもう、曇り一つないガラス球のように輝いている。
あめゆじゆとてちてけんじや
本田はふと、もう1つ賢治の詩を思い出した。最愛の妹にして最大の理解者でもあったトシを失った賢治の詩を。
本田にも姉妹がいるからだろうか、この哀しい詩だけは妙に鮮明に記憶の中へ残ったのだ。
理解者―――やっぱりアイツはお前にとっての理解者だったのか?
混乱した頭を抱えながら、獏良の胸元を凝視する。嘘のように消えた傷跡が白々しくて、本田はそこを睨み付けた。
「死ぬななんて言わないから、最期は僕をその眼に映して。ね?」
獏良の甘い声を掻き消すように、教室の雰囲気は徐々に切り替わっていく。授業が始まれば皆ピリピリする、もう受験生だ。さっき自分でそう確認していたのに、本田は変化についていけない。足元がぐにゃりと歪むような、言い知れぬ不安感が襲う。
(俺はやっとアイツと同じ土俵に立てたのか?)
複雑な想いのまま、本田は眼鏡の向こうの瞳を窺いながらゆっくり頷いた。