記憶のカケラ
「彼女の声とか、仕草とか、目鼻立ちとか、輪郭とか、思い出そうとすればするほど、どんどんわからなくなる。どんな風に笑っていたかなんて、何回も目の前で見ていたのに、思い描こうとするとわからなくなるんだ。どこもかしこも曖昧で、ぼやけていて、何も思い出せない……」
どうしていいのかわからない。忘れようなんて思ったことはない。忘れたいとも思わない。いつまでも鮮明な記憶のまま、彼女のことを覚えていたいのに、時が経てば経つほどに記憶の中の彼女はぼやけていく。もう彼女の笑顔を、思い通りに描くことさえできない。
これは俺の罪だった。忘却という名の罪だった。
誰にも罰することはできない。けれど己が一番その罪の深さを知っている。
自分ではどうしようもなかった。彼女のことを覚えてもいられないくせに、未来に描いた夢は忘れずにいる自分がどうしようもなく恨めしかった。そんな資格は俺にはなかった。彼女の記憶をどんどん消し去っていくような俺には。
「それでもあなたのその想いは、少しも薄れてなどいないでしょうに―――」
マッシュの声が聞こえた。深い声色だった。どんな想いでその言葉を口にしたのかは、俺にはわからなかった。
ただその響きが、俺に顔を上げさせた。
「記憶とは、それほどまでに大切なものでしょうか? たとえどれほど願おうと、時が経てば人の記憶は必ず消えていってしまう。それは私たちが生きている限りどうしようもないことです」
真っ直ぐに見つめてくるマッシュの瞳に、俺の姿が映っていた。
「人は死んでしまった人間と同じ時を歩むことはできません。生きている限り、記憶は過去へと置き去りにしていくしか術がないのです。けれどもそれは罪ではありません。それこそが私たちが生きている証なのですから」
静かに波の音がたゆたう。マッシュの声は、その音のように自然と俺の中に染み入ってくる。
「記憶は、ぼやけていくものです。忘れ去ることはなくても、曖昧に輪郭が崩れていくのはどうしようもありません。けれど、フリックさん…」
言葉を聴いた。
「あなたの想いは、少しも薄れてなどいないでしょう?」
優しい言葉を。
心が癒されていくのがわかる。すべてを完全に溶かしきることはできないけれど、それでも確実に温かい波が俺の心を包んでいく。
「……俺は…彼女のことを忘れたくないんだ……」
「あなたの心は、あの娘のことを覚えているでしょう」
「でも…記憶が…消えていく……」
「それは頭の中の話です」
マッシュの顔が笑顔に崩れる。聞き分けのない子供に苦笑するように。まるで家族に向けるような慈愛に満ちた眼差しをして。
「記憶とは、頭で覚えているものでしかありません。ですが、あなたの想いは心で感じているものです。記憶は消えていっても、あなたはその想いを心で覚えていればいいではありませんか」
涙が溢れた。
何に対しての涙だったのか。
己を許す言葉にか。向けられる優しい眼差しにか。
それとも、彼女に向けられている、己の心の中に住む溢れんばかりの想いにか。
それはきっとすべてに対する涙だったのだろう。言葉に表せられないような、そんな想いも含めたすべて。
涙となって流れたすべて―――。
「フリック、遅いっ!!」
出発の時刻に半刻ほど遅れて姿を現した俺に、コウが顔を真っ赤にして叫んだ。真っ白な息が空気に溶け込んでいく。
「悪い。遅れたな」
片手を挙げて駆け寄っていくと、ビクトールが鼻をすすりながらぼやいた。
「まったく、こんな寒空の中を待たせやがって。風邪ひくだろうが」
「おまえのは、その服装のせいだろ」
「なんだとぉ? おまえなあ、それが待たせた相手に対していう言葉か!?」
「まあ、半分当たってるけどね」
クレオの突っ込みに、勢い込んでいたビクトールは、気勢を殺がれたようにずっこける。
「クレオ~。おまえまでそんなこと言いやがるか」
「あ~っ、もうっ!! なんでもいいから出発するよっ。寒いんだから、さっさと行こう!!」
コウの強制的な出発の合図に、俺たちは船に乗り込んだ。
「では、コウ様。後はよろしくお願いします」
見送りに出ていたマッシュは、信頼しきった顔でコウに笑顔を向ける。
「はい。行ってきます」
コウの言葉を合図に、船は海の彼方へと向かって動き出した。
俺の記憶の中で、君は薄れていくけれど。
それでも心は覚えているから。
この想いは決して薄れはしないから。
君は許してくれるだろうか?
君のことを少しずつ、けれど確実に忘れゆくこの俺を。
この想いさえ残っていれば。君のことを想うこの心さえ残っていれば。
今だけは涙を流そう。
この一粒の涙を流そう。
君と俺の、再生の涙―――。