記憶のカケラ
公の場ではコウ以外の人間を呼び捨てにするマッシュは、こうした私的な場では俺のことを「フリックさん」と呼ぶ。敬称つきで呼ばれることに慣れていない俺にとって、それはなんだか奇妙な響きで耳に届く。
『フリックさん』
彼女のその呼び方が、「フリック」に変化したのはいつだっただろう?
今はもう思い出せない。
「あなたとは一度ゆっくりと、お話したいと思っていたのですよ。そちらの都合は無視してしまっていますが」
笑いを含んだ声で、少し悪戯めいた口調で。
年が離れているせいか、全然オデッサと似通ったところがないと思っていた男は、意外なところで彼女を思わせる喋り方をした。
思わずマッシュの方を振り返ってしまう。すぐにしまったと思ったが、その時にはすでに遅かった。
俺の顔を見たマッシュが、一瞬驚いたように目を見開き、すぐにその目を厳しくすっと細める。
俺はそれ以上マッシュの顔を見ていることができずに、また顔を背けた。
今更どう弁解しようが、俺の目が腫れている理由を取り繕うことなどできない。ならば黙っていること以外に、他にやれることはなかった。
「・・・あなたはオデッサといつ出会ったのですか」
そんなことを聞かれた。泣いていた理由を見透かされた気がして、焦る心を必死で押さえつけた。できるだけ平静を装って答える。
「・・・なんで、そんなこと聞いてどうするんだ?」
「言ったでしょう? あなたと話してみたかったと」
「だから、なんで・・・」
大きく脈打つ鼓動がうるさかった。動揺していることを悟られたくなかった。
「理由などありません。ただ、あの娘の・・・オデッサの兄として、あなたと話してみたかったのです。そうすれば、私の知らないあの娘のことが、少しでもわかるのではないかと」
オデッサの兄。
その言葉がやけに大きく響いた。
彼女の口から兄という言葉を一度だけ聞いたことがある。意味もない会話の中で、彼女はついでのように、兄がいたと言っていた。その一言だけで、俺は詳しく聞こうとは思わなかったし、彼女もそれ以上自分の家族のことについて話そうとはしなかった。
「俺は彼女からあんたのことを詳しく聞いたことはない」
そう言うとマッシュは静かに笑った。
「そうでしょうね。私もあの娘もあの家を捨て、互いに一人となって新たな道に向かったのですから」
波の音が、俺とオデッサの兄の間にある隙間を埋めていった。
俺は俺の知るオデッサのことを話した。彼女との出会い、解放軍の活動、帝国軍との戦い。
何度となくアジトが急襲されたこと。彼女とひどい喧嘩をしたこと。互いに革命への情熱をぶつけ合った時のこと。彼女が仲間の犠牲に、とても苦しんでいたこと。
俺は俺の知っている彼女のことを話し、マッシュは俺の知らない彼女のことを話す。
幼かった彼女。泣き虫だった女の子。お兄ちゃん子で、よく夜に一緒に寝たこと。弟が生まれてからは、反対に世話焼きな女の子に一変したこと。
俺の知らない彼女。俺の知らない時間。
「戦士の村へ行くのは嫌ですか?」
お互いのオデッサのことを話し終え、ふいに訪れた静寂を破ったのはマッシュだった。
その言葉に現実に引き戻され、心の中に言いようのない風が渦巻き始めるのがわかった。
「昨日、偵察メンバーに入るのに躊躇していましたね」
やはりこの男は気づいていたのだと思った。そんな素振りは少しも見せなかったというのに。
「別に嫌というわけじゃない」
自分でもわからない想いが、胸の内に重くのしかかっている。これがどこからくる感情なのかわからない。
「あなたの出身の戦士の村には、色々とおもしろい掟があるそうですね」
突然話を変えた男の真意がわからなくて、俺は戸惑った。どう返すべきか考えあぐねているうちに、マッシュは一人で会話を続けてしまう。
「色々と私も聞いたことがあります。有名なのは成人の儀式といって、村の男が武勲を挙げるために外に出るそうですね。その他にも己の剣に、何よりも大切なものの名前をつける習慣があると聞きました」
静かにマッシュは言葉を紡ぎだす。俺はいつのまにか彼の横顔に目を向けていた。
マッシュは前方に広がる海の彼方を見つめたまま、視線を返そうとはしない。俺たちは初めに顔を合わした後、一度も互いの顔を見ていない。
「あなたはもしかしたら、すべてが終わった後に、オデッサを戦士の村へ連れて行くつもりだったのではないのですか?」
波の音が一段と大きく鳴った。
ゆっくりとマッシュの顔が俺のほうを向く。俺は微動だにせずに、その様を見つめていた。
息をするのも忘れていた。鼓動の音が耳に痛い。何も考えることができなかった。動くこともできず、ただ彼の顔を凝視し続けていた。
「…やはり、そうだったのですね……」
マッシュは少し寂しそうに微笑んだ。
「…俺は………」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていて音になっていなかった。だがマッシュは何も言わず、俺の言葉の続きを待っていた。
「俺は…べつに、そのあと彼女とどうするとか、そんなこと考えていたわけじゃなくて……、ただ…俺の生まれた故郷を…彼女に見て、もらいたくて……」
のどが痛い。うまく声が出せない。なぜこれほどまでに胸が苦しい?
「……わかっています…」
マッシュは微笑んだまま、少し視線を落としてそう答えた。悲しいような、嬉しいような、そんな声音だった。
「…だから、あなたはあなたの故郷のある地に、足を踏み入れるのが嫌だったのですね…」
低く囁かれた言葉。
彼女と踏むはずだった土地だから。そんな未来を奪われてしまった土地だから。
この胸を占めるのはそんな想いからか?
「―――違う」
それ以上に、苦しいほどに胸を締めつけるのは激しい後悔の念だ。あるはずだった未来を失くしたことに、辛さを感じる自分さえ許せないほどの、自己嫌悪。そんな未来を夢みていたことを、思い出すことさえ許されないほどの。
「フリックさん?」
低く押し殺した声音で囁いた俺を、マッシュは怪訝な顔で見返してきた。
今俺は、一体どんな顔をしているのだろう?
マッシュが驚いたように目を見張ったのがわかる。
きっと、ひどく醜い顔をしていたのではないだろうか? 俺は誰よりも、自分自身が許せない。
「違う、違うっ、違う―――っ!!」
俺は声の限りに叫んだ。違う、と。
「…フリックさん。大丈夫ですか…?」
頭を抱え込んでうずくまった俺の耳に、マッシュの気づかうような声が聞こえてきた。その声がさらに俺を自責の念に駆り立てる。
「違うんだ…っ。そうじゃなくて、…俺は、何も覚えていない……」
彼女のことを忘れたことなど、片時もありはしないのに。
―――何も思い出せない。
「あの日、彼女が笑って出て行ったとか、やっぱり止めようとしたけれど、彼女は聞き入れてくれなかったとか、そんなことは覚えてるんだ。だけど、思い出せない…っ」
まだあれから、一年も経ってはいないというのに―――。