「 拝啓 」 (6)
慣れた道を走った
走った、走った、なにも聞かないように走った
自動ドアを潜り抜け、合鍵でオートロックを解除した
エレベーターに飛び乗って震える手を階数ボタンを押す
動き出すエレベーターの中で、乱れた呼吸を整える
足が震える、涙が溢れかけた
チン、と目的の階に着いても、直ぐには動くことが出来ずにいた
なんとか足を動かして、そろそろとエレベーターを出る
途中で他の部屋の住人と擦れ違ったけど、気にする余裕なんてなかった
黒く重いドアを開けて、四日振りに触れたこの部屋の空気に眼を閉じた
外から切り離された様に、ひんやりとしている空間
ゆっくり、ゆっくり瞼を開ければ見慣れた光景が写る
一歩ずつ進んで、広い静寂に包まれた場所に出た
「…………ただ、いま。……いざやさん」
(返事は、ない)
(あたりまえだ、彼は海外にいるのだから)
(でも、もう期間の三ヶ月は、終わったんだよ?)(それなのに、どうして?)
(あたりまえだ、彼は、)
(かれは、もう)
(も う)
( しんだのだから )
「………ぁ、あ……っ」
がくりと膝が崩れた
フローリングに座り込む、冷えた感触が足から伝わった
「…ざや、さ……いざやさん」
声、触れる指、包み込んでくれる身体、冷たいようで暖かい体温、さらさらとした髪、自分だけに見せてくれる子供みたいな笑顔
ない、ない、どこにもない
「臨也、さん…臨也さん…っ」
どこにも臨也さんが いない
「やだ、やだぁ…っ!臨也さ…ん!」
もう、あの人は もう、一生
「っ…………や、だ…ぁ、あぁぁぁあああぁあああ!!!」
感情が爆発した僕は、頭を抱えて叫んだ
ぽたぽたと生温い水が頬を伝って、フローリングに落ちる
声が反響して、壁に吸収される
「はっ…は…、やだ…ぁ…っ…いざ、やさ……臨也、さんっ」
(臨也さん臨也さん臨也さん臨也さん臨也さん、いざや さん)
何回も何回も名前を呼んだ
苦しくて、悲しくて、辛くて
不の感情が濁流のように溢れ返って、まるで溺れている様だ
助けて、臨也さん たすけて
「……臨也、さん」
涙で霞んだ視界がフローリングを捉えたまま、ズボンのポケットに手を忍ばせる
冷たいモノが指に触れた
それをそのまま握り締めて、ゆっくり取り出した
――取り出したそれは、ナイフだ
臨也さんがずっと愛用していた折り畳み式のナイフ
『これはいつも俺を守ってくれるものだから、帝人君に貸してあげる』
『きっと帝人君を守ってくれるよ』
そう言って、海外に行く前に僕に手渡してくれた
でも使う様なことに巻き込まれちゃ駄目だよ、なんて臨也さんは苦笑していたけど
その時の笑顔を思い出して、僕の心は少しだけ落ち着きを取り戻した
(そっか、)(いざやさんがここに、いないなら)
(ぼくがそっちに)
刃を出して、柄を両手で握ると頭上に振りかざす
震えを無理矢理抑えて、力強く柄を握り締める
(いざやさん、)
そして、僕は
自分の腹部目掛けて 勢いよくナイフを振り下ろした
―刃が、光の中できらりと光った
しかし、腹部目掛けて振り下ろされたそれは、 ぴたり と腹部の数ミリ前で動きを止めた
違う――止めたんだ、自分が
また震えだした両手から、ナイフがぽろりと落ちた
涙が次々にぼろぼろとナイフの上で弾ける
(僕は、僕は……っ)
臨也さん、って何回も縋っているくせに
苦しい悲しい辛いって言ってるくせに
結局僕は、自分の命を捨てられない臆病者なんだ
「ぁ…っ……め、んな、さ……ごめ、な…さ…いっ」
なにに対しての謝罪なのか分からないまま、僕はただ謝り続ける
夏の終わりかけの、空の青いあおい日だった
作品名:「 拝啓 」 (6) 作家名:朱紅(氷刹)