精霊の歌
静謐―――という言葉がある。
清らかに静まり返った空間に、ピンと張り詰めた緊張感が漂っている―――そんな雰囲気を連想させる言葉。
血で手を染めた人間がいるには、およそ似つかわしくない場所。
そんな場所に立っていることに、無性に居心地の悪さを感じた。
(ここの空気は清浄すぎる)
胸のうちで小さくつぶやく。
気持ちが洗われていくような美しさ。
木々のざわめきも、肌に触れる空気も、土の匂いも、生物の息づきすべてが。
まるでこの空間のあらゆるものが、生きとし生けるものを祝福しているかのようで。
(ここは俺のいるべき場所じゃない)
そう思う。ここはもっと穢れのないものだけがいるべき場所だ。
もし神が住むとしたら、このような場所に違いないから。
だからこそ、この地が真なる水の紋章の封印に選ばれたのかもしれない。
アルマ・キナンの村は厚い森に覆われて、昼間であるというのに薄暗かった。
だが、なぜか陰鬱な印象はなく、どことなく清々しささえ感じる。
それがグラスランドの中でも、この地が特別であることを物語っているようだった。
ナッシュは村からクプトの森へ入ってすぐのところにある祠のそばで、木の幹に背を預けて立っていた。
封印を祀る祠の前では、ひとりの少女が祈りを捧げている。
少女はもう半刻ほどもの長い間、微動だにせずに膝をつき両手を組んで瞑目していた。
すでに陽は傾き、ただでさえ薄暗い森の中に闇が忍び込む。
クリスはどうしているだろうか―――、などとふと思った。
彼女が幼い頃に姿を消し、戦死とされていた父親。
その男が生きており、さらに真なる水の紋章の継承者であったという事実は、彼女の胸にいかほどの波紋を投げかけることになったのか。
それはあまりに重い事実ではあるが、彼女がその重みに潰されたりなどしないことを、ナッシュはこの短期間ですでに熟知していた。
クリスは強い。
剣の腕もさることながら、その心がとても強い。
簡単に彼女の心は砕けたりなどしないはずだ。
物思いにふけっていると、落ち葉を踏む音が耳に届いて、ナッシュは顔を上げた。
数条の木漏れ日が、そこここの地面に光を落とす中で、ゆっくりと祈りを捧げていた少女が立ち上がった。
「ナッシュさん」
ようやく祈りを捧げ終わった少女は、ゆっくりとナッシュのほうに向き直ると、少し茶目っ気を含んだ瞳で話しかけてきた。
その様子を眺めながら、ナッシュはゆっくりともたれかかっていた幹から背を離す。
「お祈りはもう終わったのか?」
聞くまでもない質問だったが、半ば社交辞令のようにナッシュは聞いた。
「はい。しっかりとお祈りしておいたから大丈夫です」
何が大丈夫だというのだろう。
この先の少女の運命を思えば、祈りを捧げること自体が馬鹿げている。
だが、それを口にすることはできない。彼にはその資格はない。
「そうか」
ナッシュは少女に近づくと、彼女が今まで祈りを捧げていた祭壇に手を触れた。
冷たい石の感触が手袋ごしの肌にも伝わってくる。そこには何の温もりも感じられない。
「ナッシュさん。どうして私の祈りが終わるまで待ってたんですか? クリスさんは先に行っちゃいましたよ?」
小首を傾げて尋ねてくるそのあどけないしぐさに、ナッシュは思わず微笑して祭壇に軽く腰をかけた。
「ダメですよ。そこは聖なる場所なのに、そんな椅子がわりにしちゃ…」
少し困った表情で、けれども声音は悪戯をした子供をたしなめるもので、少女はナッシュに注意する。
少女…そう、今この子は子供から大人の女性へと変化していく過程の真っ只中にいる。
少しクセのある黒い髪の毛。その髪の毛と同じように黒く、やや大きめのくっきりとした目。小さな鼻に薄紅色の唇。服から伸びている手足は、ふっくらとして健康そのものだ。
美人になるかどうかはわからないが、間違いなく愛らしく魅力的な女性に成長することだろう。
このまま普通に暮らし続ければ、確実に。
「なあ、ユン。今夜の儀式、やめるわけにはいかないのか?」
言ってはならないこととはわかっていても、ナッシュは問いかけずにはいられなかった。
少女―――ユンは彼の言葉に驚いたように目を見張ったが、それもつかのまで、すぐにその顔にはおっとりとした笑顔が浮かび上がった。
「なんだ。ナッシュさんは知ってたんですね。ちょっと驚いてしまいました」
「まあな。さっきの俺とクリスの会話を聞いてたんだろう? ・・・いや、あんたのことだから俺のことも初めから知ってたんだろうな。これでも一応ハルモニアのスパイなんでね。そのぐらいの情報はつかんでるのさ」
ナッシュの軽口に、ユンはくすりと笑うと彼の隣にやってきて、自分も並んで腰をかけた。
「おいおい、いいのか? 聖なる祭壇だぞ?」
「いいんですよ」
ユンは楽しそうにそう言うと、自分より頭一個分は高い位置にあるナッシュの顔を下からのぞき込むように見上げた。
「ご謙遜なさらなくてもいいですよ。アルマ・キナンの村の人以外で、魂送りの儀式のことを知ってるなんて凄いことです。私たちは、今回のように特別なことがなければ村から出たりすることなく一生をここで過ごします。そのことはご存知でしょう? そのため同じグラスランドの他の部族の人達だって、私達が存在していることを知っていても、どんな生活をしているかとか詳しいことはまったくと言っていいほど知られていないんですよ。それなのにどうやってナッシュさんは、儀式のことを調べたんですか?」
「それは企業秘密ってやつでね。教えられないな」
ナッシュがおどけてみせると、ユンは少し口をとがらせた。
「いいですよ、別に。その代わり私もナッシュさんには何も教えてあげません」
そっぽを向いてしまった少女に、ナッシュは苦笑する。
そのクルクルとよく変わる表情を、愛らしいと思った。
まるで今夜のことなど気に留めている様子がない。ナッシュにはわからないことだが、この村に生まれ育ってきた者にとっては、今夜の儀式は悲しむべき事柄ではないのだろう。
肉体の死というものに重きを置かない部族。
自然とのつながりが強く、精霊の存在を近くに感じられるからこそ、他の人間には理解できない考え方がある。
結局この世の中に、正しいことなど何ひとつないし、正しい人間などどこにもいない。
皆、自分の信じる道のために進んでいくだけだ。
ならば自分は?
自分はなんのためにここにいる―――?
「なんか、不思議ですよね」
ぽそりとつぶやいたユンの横顔をうかがえば、彼女は淡く口元に笑みを湛えていた。
「何がだ?」
ナッシュの問いかけに、どこか遠くを見つめたままユンが答える。
「私たち、本当なら出会うことなんてなかったはずなのに・・・」
その言葉がなぜか胸に重く響いた。
ユンの声音がどこか悲しげだったからかもしれない。
「…幼い頃から、この時を夢に見ていたんだろう?」
彼女が言おうとしているのはそんなことではないとわかっていながら、ナッシュは敢えて焦点をずらして尋ねた。案の定、ユンはゆるくかぶりを振った。
清らかに静まり返った空間に、ピンと張り詰めた緊張感が漂っている―――そんな雰囲気を連想させる言葉。
血で手を染めた人間がいるには、およそ似つかわしくない場所。
そんな場所に立っていることに、無性に居心地の悪さを感じた。
(ここの空気は清浄すぎる)
胸のうちで小さくつぶやく。
気持ちが洗われていくような美しさ。
木々のざわめきも、肌に触れる空気も、土の匂いも、生物の息づきすべてが。
まるでこの空間のあらゆるものが、生きとし生けるものを祝福しているかのようで。
(ここは俺のいるべき場所じゃない)
そう思う。ここはもっと穢れのないものだけがいるべき場所だ。
もし神が住むとしたら、このような場所に違いないから。
だからこそ、この地が真なる水の紋章の封印に選ばれたのかもしれない。
アルマ・キナンの村は厚い森に覆われて、昼間であるというのに薄暗かった。
だが、なぜか陰鬱な印象はなく、どことなく清々しささえ感じる。
それがグラスランドの中でも、この地が特別であることを物語っているようだった。
ナッシュは村からクプトの森へ入ってすぐのところにある祠のそばで、木の幹に背を預けて立っていた。
封印を祀る祠の前では、ひとりの少女が祈りを捧げている。
少女はもう半刻ほどもの長い間、微動だにせずに膝をつき両手を組んで瞑目していた。
すでに陽は傾き、ただでさえ薄暗い森の中に闇が忍び込む。
クリスはどうしているだろうか―――、などとふと思った。
彼女が幼い頃に姿を消し、戦死とされていた父親。
その男が生きており、さらに真なる水の紋章の継承者であったという事実は、彼女の胸にいかほどの波紋を投げかけることになったのか。
それはあまりに重い事実ではあるが、彼女がその重みに潰されたりなどしないことを、ナッシュはこの短期間ですでに熟知していた。
クリスは強い。
剣の腕もさることながら、その心がとても強い。
簡単に彼女の心は砕けたりなどしないはずだ。
物思いにふけっていると、落ち葉を踏む音が耳に届いて、ナッシュは顔を上げた。
数条の木漏れ日が、そこここの地面に光を落とす中で、ゆっくりと祈りを捧げていた少女が立ち上がった。
「ナッシュさん」
ようやく祈りを捧げ終わった少女は、ゆっくりとナッシュのほうに向き直ると、少し茶目っ気を含んだ瞳で話しかけてきた。
その様子を眺めながら、ナッシュはゆっくりともたれかかっていた幹から背を離す。
「お祈りはもう終わったのか?」
聞くまでもない質問だったが、半ば社交辞令のようにナッシュは聞いた。
「はい。しっかりとお祈りしておいたから大丈夫です」
何が大丈夫だというのだろう。
この先の少女の運命を思えば、祈りを捧げること自体が馬鹿げている。
だが、それを口にすることはできない。彼にはその資格はない。
「そうか」
ナッシュは少女に近づくと、彼女が今まで祈りを捧げていた祭壇に手を触れた。
冷たい石の感触が手袋ごしの肌にも伝わってくる。そこには何の温もりも感じられない。
「ナッシュさん。どうして私の祈りが終わるまで待ってたんですか? クリスさんは先に行っちゃいましたよ?」
小首を傾げて尋ねてくるそのあどけないしぐさに、ナッシュは思わず微笑して祭壇に軽く腰をかけた。
「ダメですよ。そこは聖なる場所なのに、そんな椅子がわりにしちゃ…」
少し困った表情で、けれども声音は悪戯をした子供をたしなめるもので、少女はナッシュに注意する。
少女…そう、今この子は子供から大人の女性へと変化していく過程の真っ只中にいる。
少しクセのある黒い髪の毛。その髪の毛と同じように黒く、やや大きめのくっきりとした目。小さな鼻に薄紅色の唇。服から伸びている手足は、ふっくらとして健康そのものだ。
美人になるかどうかはわからないが、間違いなく愛らしく魅力的な女性に成長することだろう。
このまま普通に暮らし続ければ、確実に。
「なあ、ユン。今夜の儀式、やめるわけにはいかないのか?」
言ってはならないこととはわかっていても、ナッシュは問いかけずにはいられなかった。
少女―――ユンは彼の言葉に驚いたように目を見張ったが、それもつかのまで、すぐにその顔にはおっとりとした笑顔が浮かび上がった。
「なんだ。ナッシュさんは知ってたんですね。ちょっと驚いてしまいました」
「まあな。さっきの俺とクリスの会話を聞いてたんだろう? ・・・いや、あんたのことだから俺のことも初めから知ってたんだろうな。これでも一応ハルモニアのスパイなんでね。そのぐらいの情報はつかんでるのさ」
ナッシュの軽口に、ユンはくすりと笑うと彼の隣にやってきて、自分も並んで腰をかけた。
「おいおい、いいのか? 聖なる祭壇だぞ?」
「いいんですよ」
ユンは楽しそうにそう言うと、自分より頭一個分は高い位置にあるナッシュの顔を下からのぞき込むように見上げた。
「ご謙遜なさらなくてもいいですよ。アルマ・キナンの村の人以外で、魂送りの儀式のことを知ってるなんて凄いことです。私たちは、今回のように特別なことがなければ村から出たりすることなく一生をここで過ごします。そのことはご存知でしょう? そのため同じグラスランドの他の部族の人達だって、私達が存在していることを知っていても、どんな生活をしているかとか詳しいことはまったくと言っていいほど知られていないんですよ。それなのにどうやってナッシュさんは、儀式のことを調べたんですか?」
「それは企業秘密ってやつでね。教えられないな」
ナッシュがおどけてみせると、ユンは少し口をとがらせた。
「いいですよ、別に。その代わり私もナッシュさんには何も教えてあげません」
そっぽを向いてしまった少女に、ナッシュは苦笑する。
そのクルクルとよく変わる表情を、愛らしいと思った。
まるで今夜のことなど気に留めている様子がない。ナッシュにはわからないことだが、この村に生まれ育ってきた者にとっては、今夜の儀式は悲しむべき事柄ではないのだろう。
肉体の死というものに重きを置かない部族。
自然とのつながりが強く、精霊の存在を近くに感じられるからこそ、他の人間には理解できない考え方がある。
結局この世の中に、正しいことなど何ひとつないし、正しい人間などどこにもいない。
皆、自分の信じる道のために進んでいくだけだ。
ならば自分は?
自分はなんのためにここにいる―――?
「なんか、不思議ですよね」
ぽそりとつぶやいたユンの横顔をうかがえば、彼女は淡く口元に笑みを湛えていた。
「何がだ?」
ナッシュの問いかけに、どこか遠くを見つめたままユンが答える。
「私たち、本当なら出会うことなんてなかったはずなのに・・・」
その言葉がなぜか胸に重く響いた。
ユンの声音がどこか悲しげだったからかもしれない。
「…幼い頃から、この時を夢に見ていたんだろう?」
彼女が言おうとしているのはそんなことではないとわかっていながら、ナッシュは敢えて焦点をずらして尋ねた。案の定、ユンはゆるくかぶりを振った。