深淵
半信半疑な眼をむけた子が、お茶をひとくち飲み、ふうっと息をつく。
「―あの、ジョニーって絵描きの人、本当に違う世界から来たのかな・・」
「否定はできないな。空間が、摩擦に作用されるなんておもしろいことをいう学者もいる」
「ふうん・・・うそくせえ」
「それを信じた人間がたくさんいて、自分も、と実行してしまうことのほうが、わたしにはうそ臭くきこえるよ。それが、実際に起こった事実としてもね」
「・・うん、まあなぁ・・。あ、そういえば、首飾り借りるはずだったお姫様は?」
「無事に挙式も終えたようだ。貸す予定の本人が急死とあっては、仕方がないことだ。むこうもこちらも、傷はなし」
微笑んだ男を嫌そうにみた子どもが、カップを置く。
「―あの絵、・・あんた、睨んでたよな?・・知ってる戦争と、同じ、だった、とか?」
「・・・さあ。わたしが知る戦争は、青い炎ではなかったな」
「もし、―」
「なんだね?」
「・・・なんでもねえよ」ぐいっとお茶を飲み干した子どもは床におりる。
「うそくせえけど、あの女の人、違う世界で今度こそ、子ども、産めるといいなって。じゃあな。書類も出したし、あんたの役にもしっかり立ったし、これでアルも納得するはずだから、帰るぜ」
「そうか。―君のかえる場所はそこだな」
「あん?」
「いや、弟君に、よろしく伝えてくれたまえ」
「・・・なんだそりゃ・・・」
「それと―」
男はそこで、とっておきの笑顔を浮かべる。
「―君の後見人はこのわたしだ。どこでどんなことをしようとも、それを忘れるな」
「わ、・・忘れてるわけじゃあ・・」
「だろうな。でなけりゃあ、あんな派手なことしでかしてくれるわけはないか」
「そ、それは」
「それでいい。つかえるものはつかえ。わたしの名も、階も、つかってこそ意味がある」
数秒見合った男は、そこでようやくお茶に手を出した。
「―君の事を、なにか勘違いしている輩もいるようだ。わたしはべつに、君の飼い主ではないのだ。こちらをうかがう必要はない。だいいち、君のような駒を、乗りこなす気合も、なだめすかす気長さも、わたしは持ち合わせていない」
子どもはむっとした顔で、ドアへ向かい、髪が踊るくらいの勢いで振り返った。
「ハボック少尉が言ってたぜ。誰かさんは、ほんっと、部下をほめるのがへただって!」
バタン!といつかと同じようにドアが閉められた。
そのむこうに去った顔が、多少赤かったのは、まあごあいきょうってことで・・。
「・・いまのところ、まだ、見捨てられてはいないようだ」
カップの中、お茶に映った己をほめてやる。
上層部の年おいた面々との、やり取りを思い出す。
こちらの報告に渋面をつくった連中は、すばらしい創作劇を作り出していた。
『ノイローゼの娘が庭師の息子をそそのかし、父親を困らせるために仕掛けた爆弾事件であって、アザン中将は、その娘の説得にあたっている最中、相手が隠し持っていた爆弾で、犯人共々死亡』
階級は下がりも上がりもしない。軍葬は行う予定。
あの年寄りども、ある意味、違う世界の住人だな、と実感。
冷めはじめたお茶のむこうから、こちらをのぞく己を飲み干し、カップを戻す男は、懐に手を当てた。
思わず、口もとがほころぶ。
違う世界と渡り合うための、貴重な告白文だ。
さて、この手紙を、どう使おうか?
会議室の内線をとりあげ、部下へ直通をかける。
「わたしだ。うまい所を知ってる者で、店を予約しろ。なんだ?・・・残業は無しだ。ああ、それと、エルリック兄弟を確保しておけ。弟をおさえればいいだろう。―は、ふざけたことをぬかすな。なぜわたしが、おまえたちを褒め称えなければならんのだ。わたしなど誰もほめてくれなくとも、こうして・・理由?―そうだな。先日、ずいぶんと中途半端な食事をしたせいで、食欲がわいただけだ。上司につきあうのは、部下として当然じゃないのか?それとも、上官命令を出してほしいか?」
伝え聞いた子どもいわく。
「・・・一緒に飯食いたいって、どうして言えねえのかな?」