深淵
そのまま無言で後につく男は、床が動くのを見ても何も言わなかった。
また、あかりが、一本。
「やあ、父さん」
それを手に待っていたのは眼鏡の男だ。
「そう呼ぶなといってあるはずだ」
「じゃあ閣下。よかったね。探し物がみつかって。あんたに感謝の心があるなら、その横にいる男と、奥で絵を描く男にしたほうがいいね」
ふん、と口から葉巻を取り落として踏みにじる男が「いいかげんにしろ。おまえとニーナがこんな勝手な道楽を続けていられるのも誰のおかげだ?」と太い指をつきつけた。
「・・・・道楽、ね」
くすりと笑いをもらしたのを通り過ぎ、「まだあの男は、くだらない絵を描いているのか?」と閣下は奥の幕をあげた。
「 な ・・・・」
「ほお」
思わず、後ろからのぞきこんだ男も声をもらす。
画家は、吠えることなく壁にむかっていた。
一心に、腕をうごかしている。
昨日まで赤い線でしか現されていなかったそこに、色がのっていた。
壁一杯にちらばり、逃げ惑い、倒れる無数の人間はそのまま壁の白。
そこにうずまく炎は。
「美しいアオでしょう?わたしはね、ジョニーの話をきいてから、ずうっと考えていました。熱のない炎のアオとは、どんなものなのか・・」
閣下を父さんと呼んだ男は、めがねを押し上げてロイの横に来ると、蜀台をかざすようにした。
ろうそくの光に、きらきらと反射するような炎が幻想的だ。
「この、きらめくようなアオを手に入れたかった、と?」
眼鏡をあげてうっとり壁を見る男へ問う。
「そうです。ニーナもすぐに賛成してくれた」
「それで、すぐに持ってきてくれた?」
「ええ。この男を困らせたかったというよりも、もう、そんな宝を持っていてもしかたがないことを知らせたかったんですよ。家宝だけ残してもしかたがないですしね。アザン家は、もう終わるんだ」
二人の会話に、壁の前で立ち尽くしていた男が振り返る。
「・・・な・・ま、さ・・か、おまえ、たち・・」
「おや、ようやく目の前のものが理解できましたか?お探しの『深淵』、いかがですか?いい、アオになったでしょう?」
眼鏡の男は得意げになる。
「 っひ、そ、そんなばかな!」
「鉱物を、細かく砕いて顔料にするのは、こういった壁に絵を残すのに、最適だと思いますよ。下地には、あなたがかわいがった犬たちの骨も砕いて取り入れました。きっと、末長く、残るでしょう」
「き、きさまあああ!!」
突進してきた老人に、男は殴り飛ばされ、眼鏡がとんだ。
腕を組んで静観していた男は、ここまでだなと見切りをつける。
「では、ご命令どおり、三日のうちに探しあてました。わたしは忙しいので、ここでお先に失礼します」
「まて!まて!おい、マスタング!」
息子を殴って興奮した男が赤黒い顔をゆがめて呼びとめた。
「貴様の駒を連れて来い!すぐにだ!」
「・・・・何を、ですか?」
立ち止まり、表情のなかった男の目元が細まる。
「貴様の金色の駒だ!探すのにも、それを使えと言ったはずだ!噂が本当かどうか試してやろうとしたのに、貴様が出張ってはわからないだろうが!イヌにした錬金術師をつかえるところでつかわなくてどうする?はやく、この絵に使われた石を元にもどさせろ!」
「・・・・・」
「出来ないとはいわせないぞ!それともなにか?貴様と同じで、あとかたなく消すしかできんのか!」
ぜいぜいと息を乱す相手を、じっと見つめた男は、ふっと笑った。
「―あんただって、消すしかできないだろう?ニーナの子どもが、流れるまで腹を蹴ったって?」
「あ、あいつはあの通り母親に似ておかしい。なにもかも、そっくりだ。産まれる子どもがまた同じなのは、わかりきっていることだ!」
しかも父親はこいつだぞ!と壁にむかう男をさした。
「 わい・・そうだ 」
その、男が、またつぶやきはじめる。
「かわい、そうだ、ニーナ、ニーナ ニーナと子ども、 かわいそうだ。こんなところに閉じ込められて、かわいそう、だから、かえる、かえるんだ、ぼくたちかえる」
泣き声にかわってゆくそれに、「かえるだと?」と閣下が不審げにきく。
「―道楽の、最終目的を教えてあげましょう。アザン閣下」
殴りとばされていた息子が唾を吐いてゆらりと立ち上がった。
「ジョニーがここに来るきっかけは、爆弾だった。すぐ側に落ちて、炎が上がったのに、それは、アオくてきれいな炎で、それに包まれている彼は、なぜか熱くなかったそうです。次にまた、炎が赤くなり、いきなりの熱さで我に返ると、ジョニーはすでに、こちらの戦争の真っ只中にいた。だから彼は、そのアオい炎に包まれれば、また帰れると思っている。」
「馬鹿らしい」閣下は鼻をならす。
「その馬鹿らしい話に魅力を感じて、ジョニーのように別の世界へ行きたいと、この絵の前で願う人たちが出ましてね。みな、一見真面目だが、この世界に大きな不満を持った人たちばかりだ。亭主がいなくなれ、なんてかわいいもんじゃなくて、この世界の人間が全て、嫌でたまらないというんですよ―」
ニーナ、ニーナとつぶやきアオをぬる男の背を見て一息いれた。
「―自分は、こんな所にいるべきじゃないって言うんです。そうして、ジョニーのように別の世界へ行ってみたいと・・。それは、簡単なことだったので、わたしが叶えてあげました。熱さも感じないうちに、ここからいなくなれる火薬をわたしてね」
「お、おまえが・・?」
「そうですよ。閣下。軍人に向いてないと、子どものころからあんたに殴られてるこの男が、今、騒ぎになっている、爆弾犯なんですよ。この世界がいやだっていう人間に、少しばかりの知恵と、道具を与えてあげれば、こんな犯罪、いつでもつくれる」
「この、このわしの顔に泥を・・なんてことを!恩知らずめ!」
「恩?あんたに恩義を感じたことは、幸いなことに一度たりともないね!さあ!そろそろ終わりにしようか!」
立ち上がった男は、ジョニー!と画家を呼んだ。
「さあ、もう行くぞ。ニーナもそろそろここに来るだろう。絵は終わりにしよう。壁際に置いたそれらをこっちに寄せて」
そこにはろうそくの本数と同じほどの、筒状のものが並べられていた。
「ば、ばかな!」察知した男が走り、ロイの脇を過ぎようとしたとき、ばん、と耳慣れた発砲音。
背中を打ち抜かれた男はそこへ倒れた。
「閣下?ジョニーは戦争にいたんだ。兵士なんですよ」
画家は、手袋をはめた男が見慣れたものとは、すこし違う型の銃を持っている。
眼鏡の男が撃たれてうめく男をひきずりながら、こういった。
「あなた宛に、わたしの手紙が届くでしょう」
それが、引き上げの合図だった。
「あとあじ、よくねーの・・」
「お茶の文句ならば、中尉にじかに」
「お茶の話じゃねえし、明らかに意図的なその返しに、ここに中尉がいなくて感謝中」
行儀悪く会議室のテーブルに腰掛けた子どもは、彼女が置いていってくれたそれに手をのばす。
「・・なあ、ほんっとーに、気付いたときには、手遅れだったのかよ?」
「君もしつこいな。わたしは屋敷で待つように言われていたのだよ。まさかあの地下で心中が行われるとは予想しなかった」