暁闇の雨
携帯電話のアラームではなく、雨音に揺り起こされるような朝だった。
暴力的な音と振動が鳴り出す前に携帯へ手を伸ばし、確かめた時間は予定より10分ほど早い。
つまり今朝は、昨日より10分長く走れるということだ。
半分眠ったままの頭は朝食をかき込み、身に染み付いたストレッチを片付けているうちに覚醒する。サイクルジャージに袖を通し、自転車を担いで歩き出した屋外は、糸のような雨の上に雲が圧し掛かっていた。夜はもう明けているのだろうが、太陽は妙な黄土色と青灰のグラデーションを描く雲に隠れて薄暗い。
屋根のない場所に歩き出せば、柔らかに、けれど確実に降る雨が瞬く間に全身を覆って伝い落ちたが、気にもならない。
愛機に跨り、走り出してしばらくは慣らし走行だ。箱根の道は幹線を外れた途端に細く頼りなく、危なっかしくてとても本来の速度でなど走れはしない。誘われるまま強豪として名を馳せる箱根学園に入学したことを、いつも唯一悔いるのがこの瞬間だった。段々に見通しの効く道へと進み出せば、それも消える。
朝、と言うよりも夜が終わる頃のこの時間帯を、存分に疾走するのは練習であれ単純に楽しいことだった。
山が、町がゆっくりと目覚めていくのを、視覚よりも耳や肌で感じる。地の果てまでも続くように錯覚する直線を、寝惚けた原付と競うのも車通りの少ないこの時間だけに許された行為だ。日が昇りきった後にはどこへともなく消えてしまう特別の感覚を新開はとても好きだった。
……今の新開には、そんな楽しみを見出す余裕すらないけれど。
「……」
静かな雨が、叩きつける勢いになるほどの速度で国道を走りながら思い出すのは、あの日からいつも同じ映像だ。柔らかな、暖かい生き物が横合いから……避けることも止まることもできない距離から、前輪の前に飛び出してくるあの瞬間。
福富のため走ると決めて、一度は降りた自転車に再び跨ってから少し経つ。
予想していたよりも遙かに、それは困難なことだったと気づかされるのに十分な時間。
最初のうちは、あの日と――あの瞬間と、同じぐらいの速度を出すことさえ出来なかったのだ。どれだけ見通しのいい直線を走っていようと、左右に小さな獣の隠れ潜む茂み一つなかったとしても、どうしても離れないビジョンに心が負ける。気がつけば指はブレーキを握り締め、直線鬼と畏怖された走りは無惨な数字となってサイクルコンピュータに表示された。
絶望の砂を、何度噛み締めたかもうわからない。
地を這う思いでハンドルを握りペダルを踏んだ。そうして新開は少しずつかつての走りを取り戻しつつあったけれど、それは未だ『箱根学園』の看板を背負うに足りるものではない。左を抜けない、その致命的な弱点だけでさえ箱根学園のレギュラーに相応しくないと思うのに、加えてカーブでスピードを出すことに躊躇いがある。これを克服しない限り、福富の力になる権利すら自分には与えられないのだと新開は思う。
同学年の3人もしょっちゅう練習に付き合ってはくれるが、彼らは彼らで次のインターハイのため地力を上げなければならない時期だ。甘えてばかりはいられないと一人、背負うと決めたものの重さに、歯を食い縛って走ることが多かった。きつくハンドルを握り締めた手からは血の気が引いて、その冷たさはまるであの日に触れた命の抜け殻のようで。
前を、ただ前だけを見据えて走るのはこんなに難しいことだったろうか。
自転車に乗りながら孤独を感じたことも、体が意思より感情に従って動くような経験も、新開にはなかった。
余計なことを考えないよう、感覚だけを研ぎ澄まして車の通らない道を走る。雨粒が針のように皮膚の露出した部分を叩いて落ちる。走る。太陽はもう昇ったろうか、空はまだ薄暗い灰色だ。走る……。
「朝が早いな、新開」
「…………っ!?」
横合いから声をかけられたのは、そうしてその直線をもうすぐ二往復し終わる頃だった。
暴力的な音と振動が鳴り出す前に携帯へ手を伸ばし、確かめた時間は予定より10分ほど早い。
つまり今朝は、昨日より10分長く走れるということだ。
半分眠ったままの頭は朝食をかき込み、身に染み付いたストレッチを片付けているうちに覚醒する。サイクルジャージに袖を通し、自転車を担いで歩き出した屋外は、糸のような雨の上に雲が圧し掛かっていた。夜はもう明けているのだろうが、太陽は妙な黄土色と青灰のグラデーションを描く雲に隠れて薄暗い。
屋根のない場所に歩き出せば、柔らかに、けれど確実に降る雨が瞬く間に全身を覆って伝い落ちたが、気にもならない。
愛機に跨り、走り出してしばらくは慣らし走行だ。箱根の道は幹線を外れた途端に細く頼りなく、危なっかしくてとても本来の速度でなど走れはしない。誘われるまま強豪として名を馳せる箱根学園に入学したことを、いつも唯一悔いるのがこの瞬間だった。段々に見通しの効く道へと進み出せば、それも消える。
朝、と言うよりも夜が終わる頃のこの時間帯を、存分に疾走するのは練習であれ単純に楽しいことだった。
山が、町がゆっくりと目覚めていくのを、視覚よりも耳や肌で感じる。地の果てまでも続くように錯覚する直線を、寝惚けた原付と競うのも車通りの少ないこの時間だけに許された行為だ。日が昇りきった後にはどこへともなく消えてしまう特別の感覚を新開はとても好きだった。
……今の新開には、そんな楽しみを見出す余裕すらないけれど。
「……」
静かな雨が、叩きつける勢いになるほどの速度で国道を走りながら思い出すのは、あの日からいつも同じ映像だ。柔らかな、暖かい生き物が横合いから……避けることも止まることもできない距離から、前輪の前に飛び出してくるあの瞬間。
福富のため走ると決めて、一度は降りた自転車に再び跨ってから少し経つ。
予想していたよりも遙かに、それは困難なことだったと気づかされるのに十分な時間。
最初のうちは、あの日と――あの瞬間と、同じぐらいの速度を出すことさえ出来なかったのだ。どれだけ見通しのいい直線を走っていようと、左右に小さな獣の隠れ潜む茂み一つなかったとしても、どうしても離れないビジョンに心が負ける。気がつけば指はブレーキを握り締め、直線鬼と畏怖された走りは無惨な数字となってサイクルコンピュータに表示された。
絶望の砂を、何度噛み締めたかもうわからない。
地を這う思いでハンドルを握りペダルを踏んだ。そうして新開は少しずつかつての走りを取り戻しつつあったけれど、それは未だ『箱根学園』の看板を背負うに足りるものではない。左を抜けない、その致命的な弱点だけでさえ箱根学園のレギュラーに相応しくないと思うのに、加えてカーブでスピードを出すことに躊躇いがある。これを克服しない限り、福富の力になる権利すら自分には与えられないのだと新開は思う。
同学年の3人もしょっちゅう練習に付き合ってはくれるが、彼らは彼らで次のインターハイのため地力を上げなければならない時期だ。甘えてばかりはいられないと一人、背負うと決めたものの重さに、歯を食い縛って走ることが多かった。きつくハンドルを握り締めた手からは血の気が引いて、その冷たさはまるであの日に触れた命の抜け殻のようで。
前を、ただ前だけを見据えて走るのはこんなに難しいことだったろうか。
自転車に乗りながら孤独を感じたことも、体が意思より感情に従って動くような経験も、新開にはなかった。
余計なことを考えないよう、感覚だけを研ぎ澄まして車の通らない道を走る。雨粒が針のように皮膚の露出した部分を叩いて落ちる。走る。太陽はもう昇ったろうか、空はまだ薄暗い灰色だ。走る……。
「朝が早いな、新開」
「…………っ!?」
横合いから声をかけられたのは、そうしてその直線をもうすぐ二往復し終わる頃だった。