月明星輝
「だが、日本」
けれど。
「はい」
「それは少なくとも、貴様の望みではなかっただろう。違うか」
「……」
す、と。
曖昧な微笑を収め、凪いだ目がスイスを見返してくる。その色は深く深い闇の黒。
何を考えているのか分からない東洋の小国。けれどスイスは同時に、分かってもいた。
知っていた、と、日本は言った。閉ざされていた世界への扉が開かれたときから、いつかこうして大きな流れに巻き込まれていくことも、いつかこうして他国に剣を向けざるをえなくなることも。
知っていた、と、言ったのだ。望んでいた、ではなく。
フランスやイギリスやドイツがそうであるように。スペインが、イタリアが、オーストリアがそうであったように。
そして何より、スイス自身がそうだったように。
互いに戦いあうことを、望んだことなど一度もない。
「……夜が」
「ん?」
「更けてまいりましたね」
「……そうであるな」
吹き込んでくる風が少しだけ冷たい。
スイスは上着を脱いでリヒテンシュタインの肩にかけ、日本は歩み寄ってやはり音もなく窓を閉めた。
ガラスが室内の明かりを反射して、初秋の澄み渡る夜空が見えなくなる。
窓の外でぽっかりと白く丸い明かりはさて外灯か、それとも月だったか。
「良い時間を、過ごさせていただきました」
再び繰り返して、向けられた平凡な東洋人の顔にはもう元の微笑が戻っていた。
スイスの背中を粟立たせた、あのぞっとするような気配はもう日本から消えている。
ただその双眸に宿る色彩の深さだけが妙に強く印象を残した。
「特別の日は今日限り。私はそろそろお暇しましょう」
「……そうか」
望もうと望むまいと、ひたすらに己の往くべき道を往こうとしている。
スイス自身も結局のところそうやって生きてきた、そうやってしか生きられなかった在り様を前にして、引き留める言葉など持てるはずもなかった。
「ああ今日は本当に、月の綺麗な良い晩だ。お元気で。どうぞお元気で。
かなうなら貴方にはまた、いつかどこかでお会いしたいものです」
本当にありがとうございました。丁寧な口調でそう言って、日本は訪れたときと同様に静かな足取りで部屋を出る。
その背中に手を伸ばせるのが人間で、そう出来ないのがスイス達のような存在だ。
膝の上に小さな体重と温もりを抱えたまま、小柄な背中が扉の向こうへ消えていくのを黙って眺めていた。
また。いつかまた。どこかでまた。そんな日が本当に訪れるのかどうかスイスは、知らない。
知っているのはただ、そんな日の訪れを薄く待ち望む己の愚かさだけだった。
己とは一体『何』なのだろうかと考えることがある。
生まれ育った地の夜をひとり眺めることはだから好きで、だから嫌いだ。
けれど少なくともこんな風にして空気の澄んだ、月の丸い夜には。
まだしもマシな考え事を当分の間できそうでは、あった。