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黒猫金猫

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久しぶりに顔を見た友人の、眉間には見覚えているよりも深い皺が刻まれていたような気がした。

「スイス」
「……」
「スイス、スーイースー」
「…………」

名前を呼ぶ。一度、二度、三度。
それなりに地声は大きい方だし、この相手は非常に耳がいい。聞こえていないはずはないのだが特製のフェタを練り込んだパイにも全く手をつけないでいるところを見ると、どうも何か考え事に沈んで五感が鈍くなっているようだった。

それ自体は別にギリシャ自身も良くあることで、普段なら相手の気が済むまで放っておく。
ただ今日それをやってしまうと、彼が来たならと焼き上げた折角のパイが冷めてしまうだろう。
本人は絶対に積極的に認めようとしないけれど、無類のチーズ好きである彼のことだ。食べ物の恨みは恐ろしいと昔から言うし、一応、気づくまで声をかけておく方が後々自分のためではないか。

ギリシャは少し考えた。聴覚と嗅覚と、それから視覚も思考の向こう側に行っている。
残るは味覚と触覚か。ならば。

「…………スイス」
「頭を撫でるな!!」
「お……気づいた」
「気づかいでか! 何なのだ一体!」

ガタリ、と椅子を鳴らして腰を浮かせた弾みに、羽織っていただけの軍服が肩から滑り落ちて鍛え上げた上腕が晴天に映える。薄く消えかけた幾つかの傷がシャツの袖から覗くのを眺めるともなく横目にしながらギリシャは、白い石畳に落ちた鶯色の上着を拾い上げた。

ひったくるようにして上着を取り戻したスイスは、気難しい野良猫よろしく柔らかな金髪を逆立てて牙を剥く。
今にも背負ったライフルだとか、腰に吊るしたハンドガンの安全装置を解除しかねない剣幕だったが向けられたギリシャは気にもせず、フェタとほうれん草のパイが乗った皿をスイスの前へと押しやった。

気難しいところのあるこの年下の友人が、自分のことをどこまでなら許してくれるのか、ぐらいギリシャにはわかる。その程度には長い付き合いだったし、その程度には信頼されていると自負していた。

「パイが冷める……。あと、眉間の皺……ひどいぞ」
「ム……余計な世話である」
「スイスが来るから……作ったんだ。出来立てのうちに……食べろ」
「……そっちの話ではない」

ナイフには手をつけず、フォーク一本で皿の上のパイを攻略にかかるスイスは敢えて『眉間の皺』にそれ以上の言及をしなかった。背筋がぴんと伸びているせいで余り行儀が悪くは見えないのだが、彼の大切な妹だとか、彼の国を東西に挟む国たちだとかの前では絶対に見せないだろう姿だ。
密かに覚える満足感が緩ませた口元に気づいたのか、胡乱な視線がギリシャを射抜く。

「何だ」
「……別に。スイスこそ、何か……あったのか」
「…………」

鮮烈な緑色の眼差しは、問いかけに答えず手元の皿に再び落ちた。
拒絶ではない、と受け止めて、ギリシャは曖昧に一度頷いた。

「ん……話したくなったら……話せ」

答えることを拒絶するなら、この友人は必ず口に出してそう言うだろう。
それがないということはつまり『話したくないわけではないが、言いにくい』何かがあったのだ。
そんな『何か』を抱えたスイスが、訪れる先として自分のところを選んでくれたのだという事実が思ったより自分を嬉しがらせていることに気づいていた。

五百年ばかり年下の気難しい少年は、気難しいなりに道理の通らない相手ではないが何かと、何もかも、自分ひとりで背負い込もうとするところがあるから。
それでどんどん眉間の皺が深くなり、元々少なかった笑顔がますます減っていくのだから――『彼』という国の在り様からすれば当然のことではあるのかも知れないけれど、ギリシャはたまにそんなスイスのことを少し心配に思う。
そんなスイスが、話したいことがあるというのなら待つことはギリシャにとって何の苦でもない。

無言の時間を過ごすことには慣れている。
ギリシャは小さく肩を竦めて、現代に至るソクラテス問題と自分の知る本人とのギャップに関する考察を再開することにした。そもそもプラトンがもう少し彼のことを理解してくれていたならば、あの恐妻家が今日あるような誤解を受けずに済んだのだけど、とか、そんなようなことを。

場には皿にフォークがぶつかる微かな音だけが響く。遠くから潮騒と鴎の声。
青よりもまだ深い青に、染め上げられた海と空。
純白の漆喰壁の影で、何匹かの猫が気だるい昼下がりを謳歌していた。

「……腹立たしいのだ」

ぽつりと呟かれた言葉に視線を戻すと、皿の上は綺麗に片付いている。来訪の連絡を受けてから急いで作ったパイだが、どうやら口には合ったらしい。水のグラスを傾けるスイスの目は相変わらずらしくもなく下方を向いて伏せられていて、それがギリシャには残念だった。

「もう忘れたと思っていたようなことばかり思い出す」
「……」
「思い出したところで何が変わるわけでも、何を変えたいわけでもない。それが腹立たしい」
「……」

ギリシャは。
簡潔すぎる一連の言葉から、スイスが何のことを話しているのかは、おぼろげにしか理解できなかったけれどそれでも直感的に思っていた。自分は、スイスが今、口にしているような感覚に覚えがある。とてもとても覚えがある。……ならばスイスの思い出した記憶とは、『あの国』にまつわる何かに違いない。

こういうときの直感が、滅多に外れはしないことを知っていた。
それはたとえば乱暴に頭を撫でたあの手のひらのような、いつの間にか身についていた戦い方のような。

もう忘れた、と思っていた、けれど不意に甦っては猫の爪のように皮膚を引っ掻く幾つかの記憶。
もうわすれた、とおもっていた。もうわすれたい、とねがったことは、多分ない。
同じ悔しさと腹立たしさを知っている。ああ、だからスイスはおそらく、ギリシャのところを訪れたのだ。

……だからこそ安易な言葉を口には出せなくて、普段以上に発言の間が開いた。
スイスにもそれはわかっているのだろう。ギリシャに何かの答えを求めるようでもなく、独り言じみた呟きは、時折水で唇を湿らせながらただ訥々と続く。
作品名:黒猫金猫 作家名:蓑虫