月夜にコンビニ、悪い虫
【月夜にコンビニ、悪い虫】
それは、オフの日、水曜の夜のことだった。『水曜シアター9』が終わった直後だったから、多分11時をいくらか過ぎたくらいのことだったのだろう。
喧嘩の発端は、それまで地元の友達とやらと長電話をしていた世良が、電話を切るなり突然「コンビニ行きましょうよ!」だなんて言い出したことだった。
だいたい堺は昔から、夜が更けてから出歩くのをあまり好まなかった。万が一にも何かあってはいけないし、わざわざ行きたい場所もない。選手寮に入っていた時分、寮監が留守にしている日にチームメイトたちがここぞとばかりに寮を抜け出したときも、部屋でひとり松本城のジグソーパズルを組み立てていた。しかも崩しては組み立てるのを既に3回も繰り返していたやつだ。
それに、コンビニ自体が好きではない。だいいち、コンビニに行って何を買うというのだ。アイスクリームも、リプトンのミルクティーも、からあげ君(なんておぞましい響きなんだ)も、およそ堺には無縁の品々である。
だから当然、今日も堺は世良の誘いを断り、風呂に入ってさっさとベッドに入るつもりでいた。いや、さすがにそれは少々そっけないので、せめてリビングでルービックキューブでもして待っていてやろうかなと、情けをかけてもその程度である。
そして更に、堺はそんなふうに考える自分についてひとつもおかしいとは思っておらず、むしろ当然だとすら思っているので、「俺は絶対行かねえ」という意思を前面に押し出した表情で世良を見下ろしていた。
世良としては、まさか断られるだなんて想像もしていなかったようで、『豆しば』のクッションの上からきょとんと堺を見上げた。コンビニ行きたいなあ、堺さんと行ったらなんかちょっと良さそうだなあ、それってカップルっぽいなあ、これ、もう堺さんとコンビニ行くしかないなあ、と、そんなメルヘンチックな発想から始まった、小さなおねだりに、まさかそんな視線が返ってくるとは。
ただ世良は馬鹿だけれど、鈍いというわけではない。前面に出すぎてむしろパンチでも放ってきそうな堺の表情を見て、「ああこれはまず間違いなく断られるな」と一瞬で察し、なんとも無鉄砲な悪あがきに出た。
「こ、来ないと後悔しますよ」
「ああ?」
「コンビニ、来た方がいいッスよ!」
まあ、勿論、そこにまともな理屈など米の粒ほども無かった。目隠しをされた状態でやたらめったらとキックを繰り出しているようなものである。
「なんでだよ。なんで俺がお前とコンビニ行かなきゃなんねえんだよ」
曲がりなりにもお付き合いをしているというのに、あんまりにもあんまりな堺の追求に、世良のあまり性能の良くないおつむがウワァと混乱していく。
「……楽しいと思いますよ」
「何が。どういうふうに」
「コンビニって楽しいじゃないスか!」
「だから何が? ATMか? 雑誌の立ち読みか? ひとりでやって来いよ」
「そ、そんなんじゃないッスよ……ここにいるより絶対、楽しくて……」
「はあァ? ここって? ここって? どこ?」
「こ、ここ……」
「ここは、俺の家ですけど!?」
馬鹿だから、あてずっぽうのパスもことごとく外れる。外れるどころか、オウンゴール一直線、とすら言える有様だ。
一方、堺は堺で、妙な具合に頭に血がのぼってしまっていた。
そもそも、試合中はともかく堺はどちらかと言えば短気なほうだ。その反面理性的でもあるから、頻繁に小さな爆発を繰り返しつつ、理性でそれを内に収めているような、そんな人間なのである。例えば、今まで運転中に堺が脳内で破壊してきた車は、ざっと練馬区の人口くらいはあるに違いない。
それに、ついさっきまで見ていた映画の結末が、あんまり酷すぎたものだから堺はずっとむかむかしていたのだ。その映画のオチへの怒りをぶちまけたい堺を放っておいて、世良が知らないやつと長電話をしていたのも、まあ、関係あるかもしれない。映画を見終わったら口直しに、久々に虎の子のスコッチを出して世良にも恵んでやろうかなんて、そんな密やかな計画が思うとおりに進まなかったのも、まあ、関係ないとは言えないかもしれない。
「そんだけじゃないッスよ、俺、おやつばっかり買うわけじゃないし……食玩とか、文房具とかいろいろあって楽しいんス……」
「んなもん、ジャスコにもあるだろ! 昼間行っとけよ」
「なんでそんなにコンビニを嫌うんスか!」
「嫌ってねえよ! お前こそなんでそんなにコンビニが好きなんだよ! お前みたいな馬鹿がそこら中にいるから、どこもかしこもコンビニだらけになっちまったんだ!」
ぎゃあぎゃあと言いながら、堺は内心、「いったい俺はなんの話をしているんだ?」とひたすら考えていた。世良と話していると、堺はたびたびこんなふうになってしまう。9歳も年下の相手に、ガキのようなことを言い立ててしまうのだ。
とは言え、はじめのうちこそ「なんだか妙だぞ」と思っていたとしても、言い争いがヒートアップするうちにそんな疑問すらどこかへ飛んでいってしまう。
「お前、そんなにコンビニがいいなら今日からコンビニに住めば? ほら行けよ」
「嫌ッス!」
「行けって、荷造り手伝ってやるからよ!」
「嫌ッス……あーっ、やめてくださいよ!」
「早く出てけって」
そしてとうとう、堺が世良の私物をポイポイと放り投げ始めた。ソファの上の豆しばクッションやら、ひざ掛けやら、パーカー、少年ジャンプ――果てはキッチンに向かって食器まで放り出そうとしている堺の足に世良が必死でしがみつき、ずるずると引きずられて、もはや本当に何がなんだかわからない状況だ。
「やーめーてーくーだーさーいーよー!」
「いいよ、俺が店長に電話して話通してやるよ、どこがいいんだ? セブンイレブンか? ファミリーマートか? デイリーヤマザキか!?」
「なんなんスか! なんでそんなに怒ってるんスか!」
「怒ってねえよ!」
当然怒り狂っている堺が、「これもだったな!」なんて言いながら部屋の隅に置かれたカラテア・ゼブリナの植木鉢を、そのままジャーマンスープレックスでもしかねない勢いで持ち上げた、そのときだ。
「ギャーッ!」
唐突に上がった世良の声に思わず、というかむしろ一瞬我に返り、堺は世良の視線の先を見つめた。そして、
「……ギャーッ!」
ギャー! ギャー! と、そこから暫く悲鳴の二重奏が始まった。堺の部屋のお隣さんは、「いったい何ごとかしら?」とベランダから顔を出している。
「何コレー! なんスかコレー!」
「ギャーッ!」
叫び続ける2人の前には、植木鉢の下から「べろんちょ」と姿を現した――謎の黒い虫がウネウネと蠢いていた。
「ギャーッ」
「ギャーッ!」
まるでさっきまで堺が見ていたスプラッタ映画の登場人物たちのように絶えず悲鳴を上げながら、2人はじりじりと後ずさりし、その虫から距離を取っていく。黒くて、なんだかヌルリと艶めき、細長く、カサカサと音を立て、何より巨大だ。長さも太さも、ちょうど筆ペンくらいある。見た目のグロさは勿論、なんとなく毒を持っていそうだし、いかにも生物としての本能に警笛を鳴らすようなおぞましさである。
それは、オフの日、水曜の夜のことだった。『水曜シアター9』が終わった直後だったから、多分11時をいくらか過ぎたくらいのことだったのだろう。
喧嘩の発端は、それまで地元の友達とやらと長電話をしていた世良が、電話を切るなり突然「コンビニ行きましょうよ!」だなんて言い出したことだった。
だいたい堺は昔から、夜が更けてから出歩くのをあまり好まなかった。万が一にも何かあってはいけないし、わざわざ行きたい場所もない。選手寮に入っていた時分、寮監が留守にしている日にチームメイトたちがここぞとばかりに寮を抜け出したときも、部屋でひとり松本城のジグソーパズルを組み立てていた。しかも崩しては組み立てるのを既に3回も繰り返していたやつだ。
それに、コンビニ自体が好きではない。だいいち、コンビニに行って何を買うというのだ。アイスクリームも、リプトンのミルクティーも、からあげ君(なんておぞましい響きなんだ)も、およそ堺には無縁の品々である。
だから当然、今日も堺は世良の誘いを断り、風呂に入ってさっさとベッドに入るつもりでいた。いや、さすがにそれは少々そっけないので、せめてリビングでルービックキューブでもして待っていてやろうかなと、情けをかけてもその程度である。
そして更に、堺はそんなふうに考える自分についてひとつもおかしいとは思っておらず、むしろ当然だとすら思っているので、「俺は絶対行かねえ」という意思を前面に押し出した表情で世良を見下ろしていた。
世良としては、まさか断られるだなんて想像もしていなかったようで、『豆しば』のクッションの上からきょとんと堺を見上げた。コンビニ行きたいなあ、堺さんと行ったらなんかちょっと良さそうだなあ、それってカップルっぽいなあ、これ、もう堺さんとコンビニ行くしかないなあ、と、そんなメルヘンチックな発想から始まった、小さなおねだりに、まさかそんな視線が返ってくるとは。
ただ世良は馬鹿だけれど、鈍いというわけではない。前面に出すぎてむしろパンチでも放ってきそうな堺の表情を見て、「ああこれはまず間違いなく断られるな」と一瞬で察し、なんとも無鉄砲な悪あがきに出た。
「こ、来ないと後悔しますよ」
「ああ?」
「コンビニ、来た方がいいッスよ!」
まあ、勿論、そこにまともな理屈など米の粒ほども無かった。目隠しをされた状態でやたらめったらとキックを繰り出しているようなものである。
「なんでだよ。なんで俺がお前とコンビニ行かなきゃなんねえんだよ」
曲がりなりにもお付き合いをしているというのに、あんまりにもあんまりな堺の追求に、世良のあまり性能の良くないおつむがウワァと混乱していく。
「……楽しいと思いますよ」
「何が。どういうふうに」
「コンビニって楽しいじゃないスか!」
「だから何が? ATMか? 雑誌の立ち読みか? ひとりでやって来いよ」
「そ、そんなんじゃないッスよ……ここにいるより絶対、楽しくて……」
「はあァ? ここって? ここって? どこ?」
「こ、ここ……」
「ここは、俺の家ですけど!?」
馬鹿だから、あてずっぽうのパスもことごとく外れる。外れるどころか、オウンゴール一直線、とすら言える有様だ。
一方、堺は堺で、妙な具合に頭に血がのぼってしまっていた。
そもそも、試合中はともかく堺はどちらかと言えば短気なほうだ。その反面理性的でもあるから、頻繁に小さな爆発を繰り返しつつ、理性でそれを内に収めているような、そんな人間なのである。例えば、今まで運転中に堺が脳内で破壊してきた車は、ざっと練馬区の人口くらいはあるに違いない。
それに、ついさっきまで見ていた映画の結末が、あんまり酷すぎたものだから堺はずっとむかむかしていたのだ。その映画のオチへの怒りをぶちまけたい堺を放っておいて、世良が知らないやつと長電話をしていたのも、まあ、関係あるかもしれない。映画を見終わったら口直しに、久々に虎の子のスコッチを出して世良にも恵んでやろうかなんて、そんな密やかな計画が思うとおりに進まなかったのも、まあ、関係ないとは言えないかもしれない。
「そんだけじゃないッスよ、俺、おやつばっかり買うわけじゃないし……食玩とか、文房具とかいろいろあって楽しいんス……」
「んなもん、ジャスコにもあるだろ! 昼間行っとけよ」
「なんでそんなにコンビニを嫌うんスか!」
「嫌ってねえよ! お前こそなんでそんなにコンビニが好きなんだよ! お前みたいな馬鹿がそこら中にいるから、どこもかしこもコンビニだらけになっちまったんだ!」
ぎゃあぎゃあと言いながら、堺は内心、「いったい俺はなんの話をしているんだ?」とひたすら考えていた。世良と話していると、堺はたびたびこんなふうになってしまう。9歳も年下の相手に、ガキのようなことを言い立ててしまうのだ。
とは言え、はじめのうちこそ「なんだか妙だぞ」と思っていたとしても、言い争いがヒートアップするうちにそんな疑問すらどこかへ飛んでいってしまう。
「お前、そんなにコンビニがいいなら今日からコンビニに住めば? ほら行けよ」
「嫌ッス!」
「行けって、荷造り手伝ってやるからよ!」
「嫌ッス……あーっ、やめてくださいよ!」
「早く出てけって」
そしてとうとう、堺が世良の私物をポイポイと放り投げ始めた。ソファの上の豆しばクッションやら、ひざ掛けやら、パーカー、少年ジャンプ――果てはキッチンに向かって食器まで放り出そうとしている堺の足に世良が必死でしがみつき、ずるずると引きずられて、もはや本当に何がなんだかわからない状況だ。
「やーめーてーくーだーさーいーよー!」
「いいよ、俺が店長に電話して話通してやるよ、どこがいいんだ? セブンイレブンか? ファミリーマートか? デイリーヤマザキか!?」
「なんなんスか! なんでそんなに怒ってるんスか!」
「怒ってねえよ!」
当然怒り狂っている堺が、「これもだったな!」なんて言いながら部屋の隅に置かれたカラテア・ゼブリナの植木鉢を、そのままジャーマンスープレックスでもしかねない勢いで持ち上げた、そのときだ。
「ギャーッ!」
唐突に上がった世良の声に思わず、というかむしろ一瞬我に返り、堺は世良の視線の先を見つめた。そして、
「……ギャーッ!」
ギャー! ギャー! と、そこから暫く悲鳴の二重奏が始まった。堺の部屋のお隣さんは、「いったい何ごとかしら?」とベランダから顔を出している。
「何コレー! なんスかコレー!」
「ギャーッ!」
叫び続ける2人の前には、植木鉢の下から「べろんちょ」と姿を現した――謎の黒い虫がウネウネと蠢いていた。
「ギャーッ」
「ギャーッ!」
まるでさっきまで堺が見ていたスプラッタ映画の登場人物たちのように絶えず悲鳴を上げながら、2人はじりじりと後ずさりし、その虫から距離を取っていく。黒くて、なんだかヌルリと艶めき、細長く、カサカサと音を立て、何より巨大だ。長さも太さも、ちょうど筆ペンくらいある。見た目のグロさは勿論、なんとなく毒を持っていそうだし、いかにも生物としての本能に警笛を鳴らすようなおぞましさである。
作品名:月夜にコンビニ、悪い虫 作家名:ちよ子