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ラブレター

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Bluff -虚勢




 激しい歓声が場内を包む。
 これ以上はないというほどの疲労感と、途方もない満足感。その場にしゃがみ込みたい気持ちをぐっと堪えて、ネット間際まで歩み寄り、この最高の試合の対戦者を見た。
 汗で僅かに湿る黒髪、荒い息。
 俄かに痙攣を起こす長い手足。
 身体全体で体力の限界を訴えているくせに、ガラスの奥の怜悧な眼だけは普段と変わらず、こちらを冷たく見つめている。その瞳には、酷く満たされた笑みを浮かべる自分が映っていた。
 最高の試合、最高の対戦者。
 これこそが自分が長く求め続けていたもので、そしてその願いは眼の前の相手からしか貰えないことを知ってから、この日のことを自分がどれだけ心待ちにしていたかなんて誰も判らないだろう。
 格下には興味がない。
 だからといって、技術はあっても体力のない奴とは楽しめない。
 千石のプレイは軽すぎて、真田のテニスは直情的に過ぎる。
 どちらかに偏っていては駄目。パワーもテクニックもメンタルバランスも総合的に自分に匹敵するのは手塚しかいない。だから執着した。こいつとの試合を渇望した。いつか必ず来るだろうその日を待って、待ち続けた日々はすべて自分の糧となっている。
 手塚がいたからここまで来れたなんて思う程、自分は謙虚な人間ではないが戦う楽しみがあるという期待は原動力の一つにはなっているだろう。
 高いレベルで全力を出し切り、戦える相手は滅多にいない。
 だから特別だった。
 決着が着いた今も昔も、手塚だけが対等であることに変わりはなく、一人の選手として自分を惹きつける存在であり続けることはこれから先も変わらない。
 ふと、自分が攻め立て古傷が悪化した腕を見た。この長い長いタイブレークの果てにこの腕の犠牲がある。
 気付かれないと思ったのは手塚の甘さ。
 それに堪え切れないと思ったのは自分の誤算。
 どちらの思惑に転ぶかなんて誰にも判らないからこそ、勝負は止められない。
「次に会う時は、こんな付け入る隙を残してんじゃねぇぞ」
「……ああ、善処する」
 言葉少なに交わして最後の握手をする。触れた手の感触が、試合前に触れた時よりも酷く熱を持っていることに気付いて、そのことが無性に嬉しい。
 試合後だから当たり前の現象ではあるけれど、それでもどれだけ白熱しても崩れなかった手塚のポーカーフェイスの裏側で、自分と同じ想いが溢れているのだということを肯定されたような気がしたのだ。
 その浮き立つ昂揚が洩れていたのか、手塚がやはり静かに問い掛けてきた。
「何がおかしい?」
 その言葉で我に返ると、思わず口元に笑みが浮かんでいることに気付く。
 確かに、己の手を握ったまま笑われては不審極まりないだろう。訝しげな手塚の顔がそう語っている。
 それに対して、ニヤリと喰ったような笑みを返した。
「いや、……楽しかったと思ってよ」
「そうだな。これほどの試合はなかなかないだろう」
「だろ?」
 今度は言葉で肯定され、堪え切れなくて頬を綻ばせる。そして、手塚の腕を高々と持ち上げた。
 一際高まる歓声。腹の底から響いてくるこの振動を、こいつも同じように感じていたらいいと思う。
「祭りのシメは、派手なくらいが丁度いい」
「……俺は普通に静かなのが好みだ」
 ぼそりと返される返事に吹き出す。
「ああ?今からジジ臭いこと云ってんじゃねぇよ」
 それを最後に、俺達はそれぞれのベンチへと別れ、疲労が色濃く残る表情を見られないよう頭からタオルを被ってコートを後にした。
 自分の試合には勝っても、チームとしては振り出しに戻っただけだ。次のオーダーですべてが決まる。
 一瞬たりとも試合の行方を見逃さぬよう、汗で眼が沁みても閉じずに見守り続けた。




「……う、ひっく。うぅぅ…………」
 試合終了の笛が鳴って会場を後にしても、ずっと引きつるような声音が聞こえている。
 盛大に泣いているのは鳳だ。大きな身体を丸めるようにして泣きじゃくっている。
「オラ長太郎、いい加減泣きやめ!」
 見るに見兼ねた宍戸が、鳳の背中を蹴ってどやしつける。けれどそんな宍戸にしても……
「し、宍戸さんだって泣いてるじゃないれすかぁ…………」
「うっせ!俺は泣いてなんかねぇよ。ただ眼から宍戸汁が止まらないだけだ」
「…………」
 そんなくだらない見栄を張る宍戸に冷めた一瞥を流して、他のメンバーの様子を窺う。
 鳳ほどではないにしろ、大体が似たような有様だ。ジローと日吉は、拭っても込み上げる涙をその度に拳で拭って嗚咽を堪えているし、岳人はすでに我慢を放棄して相方の胸に顔を預け泣いている。
 一人、自分と同じように冷静に見える忍足にしても、岳人を宥めるその顔は泣いてこそいないがいつもと違う表情で暗く沈んでいた。
 中学三年の夏が終わったのだと、そのことをそれぞれが受け止め必死で整理を付けている。
 力及ばず敗れた深い悔恨。
 勝者がいれば必ず敗者がいる。それだけのことだと切り捨てることは簡単だが、それじゃ割り切れない思いがある。プライドがある。
 いつまでも負けを引き摺るのは馬鹿がすることだが、今だけは泣いてみっともなくとも誰も笑わないから、気が済むまで吐き出すといい。
 会場からそのまま学園に戻り、本日最後のミーティングを済ませメンバーを先に帰らせる。その頃にはだいぶ吹っ切れてきたのか、ぽつぽつと笑みが零れるくらいには回復しているように見えた。
 部誌を書いた後、監督と打ち合わせがあるということを盾に誘いを断り、ようやく部室から締め出し一人になって溜息が出る。
(さすがに疲れたか…………)
 椅子に座り肘を立て、手の甲に額を乗せて項垂れた。
 ずっと、試合が終わった瞬間から、下腹部に固く冷たいしこりのような物の存在を感じている。それの正体は、さっきみんなが吐き出したものと同じものだ。
 どんなに冷静に取り繕っても、受ける痛みに違いなどないし、痛みの程度など軽かろうが重かろうが痛いことには変わらない。ただ違いがあるとしたら、それは素直に吐き流してしまえるかどうかだろう。
(……奴等と一緒に泣けるような素直さがあれば、こうして抱え込むこともないのかもな)
 けれどそうできない立場がある。プライドがある。誰がどう云おうとも、許されないという自覚がある。
 そうして意識的に長年律していたら、いつの間にか涙など流すことはなくなっていた。
 それがしこりを流す最大の障壁になっているのだとしても、今更変えることなど出来るわけがない。だからこうして、冷たくひきつく重みを抑え付けて抱え込む。
 それ以外どう処理していいのかが判らない。
 悔しくて苦しくて流れる涙は自浄作用がある。精神に不要なものを洗い流す生理作用。それは決してみっともないことではないし、むしろ日々の精神バランスを安定させるには不可欠な現象だ。
 では、それを拒否した者はどうだろうか。
(もしかしたら、もうどこかおかしいのかも知れねぇな)
 だが、そうだとしても、

「もう、泣き方なんて忘れちまった……」

 小さく、微かな呟きは、それでも広い部屋の中に響いては静かに消えていった。
作品名:ラブレター 作家名:桜井透子