ピーターパンに願い事を(あの日のままでどうかどうか!)
翌日、早朝、約束の喫茶店に入ると奴はもうすでにそこへ来ていた。雨上がりの冷たい空気が指先を冷やす、なのに奴は薄いカットソー1枚でオープンテラスにうずくまっていた。「おまえ、さむくねえのか」思わず聞く。「さむいよ」慈朗はなんでもないかのように俺を見上げてそういった。鼻先が赤く染まっている。俺は自分の捲いていたマフラーをぐるぐる首に捲きつけてやった。えへへ、ありがと。と奴が笑う。心ここにあらずのその様子に俺は自分の胸がひとりでにきりりと痛むのを感じる。
「慈朗、「おくさんがね、逃げちゃったんだって」「…」「だから、おれともっかいちゃんと付き合いたいんだってさ」勝手だよねえ、そういって奴は笑う。
「…慈朗」
「うん」
「…おまえ、もっかい付き合うつもりなのか」
「まさか」
「逃げてったのはおしたりだよ」そう慈郎は相変わらず笑みを浮かべたままいった。会いたくなんかないよ。そう繰り返すその口唇は笑みをかたちづくって壊れない。ああ。いますぐその口唇を塞いでしまえたら。そうしたらそんな悲しい笑みを浮かべさせずに済むのだろうに。だけど俺はその笑みを、瞳を、まっすぐに見詰めることさえ出来ない。
会いたくなんかないよ、そう繰り返す口唇はけれど、明日になればあの男の指定した待ち合わせ場所で、いつものようにただうつくしく笑みを浮かべる。そうしてあの男の言葉に応える。あの男とくちづける。未来の話をする。明日の、その先の話を、あのころのように。
「…慈朗、」
「なに」
「…あの男のこと、すきか」
息を呑むのが聴こえた。はじめて奴の笑顔が崩れる。「…なにいってんの」「すきか」俺を見上げて探るように見開かれた目がそうっとやわらぐ。奴は笑みを取り戻し、果てはふふ、などと声を出して笑いながらこういった。
「きらいだよ」
なあ慈朗、俺たちはきっと擦れすぎた。ひとに、世界に。あのころに戻れたらいい、おまえがあの男に会う前の、まだ俺たちがちいさなガキだったころに。そしてただ感じるままに泣けたらいい。おまえはそんな諦めきった笑みは覚えずにおとなになって、そして俺もおまえから目を逸らしたりはせずにおとなになる。泣くことは忘れない。泣きたいときに泣いて、おまえと慰めあいたい。抱き締めあいたい。そう出来たらいい。あのころに戻りたい、もういちど。そうして今度は、こんな現実には汚されずに。
俺はおまえと俺たちの未来が見たい。
作品名:ピーターパンに願い事を(あの日のままでどうかどうか!) 作家名:坂下から