樹を降りる
光がすっかり消えたころ、小鳥が鳴いたみたいな声が聞こえた。ええととプリンスがランタンを動かして、場所を探す。あのあたりだろう、いやここだと外野のアドバイスに右往左往したあげく、立ち泳ぎで手をふる子供の姿を照らし出した。
「よーしよし。今からうきわおろすぞー」
満面の笑みを浮かべ、上機嫌に船を見上げてくるゾディアックに、パイレーツがそう声をかけた。ぴぃという返事を聞いた後、彼はおれに頷きかける。おれは船に沿うように、ゆっくりとロープのついたうきわを下した。
たるませたロープを引く合図を確認した後、慎重にゾディアックをひきあげる。人一人分とは思えぬほどの軽さだった。無事甲板へと引き上げると、ただいまらしき鳴き声の後、子供は満足そうな表情でおれに抱きついてきた。……いつのまに脱いだものなのか、白い下着姿だ。なるほど、さっき視界の隅で何かが動いたような気がしたのはこれか。べったりと全身塩水でぬれたまま、細い腕をおれの身体にまわし、頬をすりつけてくる。愛らしいというに相応しい姿だった。だが。
おれは無言で、胸のあたりのつむじを見下ろしていた。様子がおかしいと思ったのだろうか。おそるおそるといった様子で、ゾディアックは顔をあげた。おれは無言のまま片手をあげ、甲板をさす。
「……」
「座れ」
短い言葉に、ゾディアックは幾度か目をしばたかせた。
「まーまー無事で帰ってきたんだし」
「そういう問題ではない。そこに正座だ」
パイレーツの軽薄な声を、一刀の元に切り捨てる。おれの低い声に何かを悟ったか、ゾディアックはぴぃと一声鳴くと、数歩下がり、ちんまりと正座をした。
「何をしたかわかっているか?」
おどおどと、ゾディアックはおれを見上げている。
「確かにパイレーツの言い方では危険がないように聞こえたかもしれない。もしかすると、危険がないことを知っていたのかもしれない。しかし、黙っていきなり海に飛び込むとはどう言うつもりだ」
しゅんとした表情になったゾディアックは静かに頭をたれる。そして、小さくくしゃみをした。かまわず続けようとしたおれを、モンクが遮る。
「風邪ひいちゃうよ」
そう言って、ファーマーたちに合図をする。うち二人がうなずきあうと、ばたばたと船室へとかけこんでいく。
「昼はともかく、夜は結構冷えるからにぃ」
お説教は後にして、見張り交代の後休んだ方がいいのではないか、と。そんなパイレーツの提案に、おれは眉を寄せた。その向うでは、ファランクスが本当に無事でよかったとゾディアックをのぞきこみ、本当に痛いところなどはないかと確認している。
よくがんばったねとキャンディでもさしだしそうなギルドメンバーたちの姿に、おれはためいきをついた。そして、少し強い調子でゾディアックを呼ぶ。
ファーマーのうち一人が持ってきたふかふかのバスタオルにくるまれ、びくりと子供は身体を震わせた。そして、ひざをただすとこちらを見上げてくる。そのさまに、モンクが眉をよせた。多分、風邪をひかせるのを気にしているのだろう。――もっとも、これ以上長引かせるつもりはない。ゾディアックは十分に素直で頭のいい子供なのだ。
「海で興味をひかれるものがあった場合、必ずほかの誰かに聞くこと。そして、確認してから手を出すこと。……ケガでもしたらつまらないだろう」
ケガくらいですめばともかく。大海原にしろ、世界樹のなかにしろ、命の危険はありすぎるほどに存在する。たとえ、星を呼ぶことのできる存在(ゾディアック)とて、相手に降り注ぐ間もなく鋭いつめでひっかけられでもしたら、あっさりと彼岸へと旅立つこととなるだろう。そういった懸念をさとったかどうかはわからない。ただ、ゾディアックは神妙な表情でうなずいた。
背後で誰かがふきだす声を聞く。多分、パイレーツあたりだろう。そちらを見ずに、おれは再度口を開いた。
「ゾディアックに限らずだ。同行する人間を危機に陥れる可能性もある独断先行は慎むように」
強い調子でわかったかと告げると、ばらばらと返事があった。真面目なものもあれば、茶化すようなものもある。それらが収まってから、おれは見張りの交代について指示を出した。そして、非該当者にはゆっくりと休むようにとも告げる。それなりの動きを確認してから、おれは再度、静まり返った海を見る。先ほどの光が嘘のように、ただ漆黒の水の壁のみがあった。
「――結局何があったんですか?」
そんな声が聞こえ、おれはふりかえった。船室の入り口に、プリンスとモンク、そしてゾディアックがいた。皆、夜明けまではもう少しあるから寝ていろという指示をだしたメンバーたちだ。
おれが気づいたことを知ったのだろう。ほんの少し気まずそうな表情で、プリンスはおれを見た。ゾディアックもまたこちらを見る。おれが何も言わないのを確認してから、再度プリンスを見て、首をかしげた。そして、しばし後、ふるふると首をふった。え、と、プリンスは幾度かまばたきをした。
「ええと、それって」
「何もわからなかった、って。そういうことかな」
モンクの翻訳に、ゾディアックは大きくうなずいた。そっか、と。モンクはうなずいた。そして、しばし後。
「そうかぁ」
心底残念そうに、同じ言葉をくりかえす。プリンスの方は、そこまで素直に感情を外にだすことはない。なんとなく、表情をひきつらせているだけだった。
残念だったねとモンクがいう。ゾディアックは頷いた。
「今度はしっかり確かめようね!」
明るく前向きなモンクの言葉に対し、おれはわざとらしくせきばらいをした。そして、三人がこちらを向いたのを確認してから、再度、早く寝ろと言って、船室を指さした。
fin.