差し伸べられた手
彼に与えられた名前は仮初めのものだった。他人が彼を呼ぶための記号に過ぎず、彼は対外的には名を持たなかった。なぜならポケモンたちの中において、彼は唯一の人間であったからだ。また父の望む世界において、彼は唯一の英雄且つ王であった。唯一には名前はいらない。神に名がいらぬように。
本当の名前を知ることで、その名の持ち主を思うがままに操ることが出来るという考え方があることは、ずっと後になってから知った。与えられた本の中にあった「トム・チット・トット」という童話の終わりについていた解説に、「真実の名は時に呪術に使われ、それを知るものは名の持ち主を意のままに操れると信じられていた」と書かれていたことにより。ならば彼に与えられた「N」は仮初めの呼び名で、真実の名ではあり得ない。父は彼に、「息子」や「人間」は求めなかった。ただ「英雄」や「王」のみを求めた。神と等しい唯一の存在には、名前はいらない。
姓はあった。ハルモニア。しかし、父と同じそれを名乗る気はなかった。それに、その響きは好きではなかった。
神話に出てくる女神の名前だ。美の女神が、己の夫ではない、暴力の神である夫との間に作った娘。ハーモニーの語源となった、調和を愛する娘の名前。
調和とは何だ。意のままに操ることなのか。
ハルモニアを自分の名と、思いたくなかった。
けれども名前がないというのは、それだけで人間として失格であるような気がした。父は最後に、彼のことを化け物と呼んだ。人間だと認められていなかった。あんなに嫌っていた人間だったのに、人間ではないと言われた瞬間傷ついたのはどうしてだろう。やはり、人間でしか過ぎなかったからなのか。
それなのに彼は、人間として必ず持っているはずの名を持たないのだ。
黙り込んでしまった彼に、青年は困ったように眉を寄せ、「うーんと」と首を捻った。
「呼ばれていた名前もないの?」
「それなら……N、と」
「それじゃあ、君はNだ」
マツバが微笑む。仮初めの、名前ですらないその名を呼びながら。
目を逸らし、「それは記号に過ぎない」と言うと、「ううん、違うよ」と彼は首を振った。
「僕が名付ける。君はNだ。今までは名のない青年だったかも知れない。けれど、今から君は、Nだよ」
ふと、雨の音が聞こえないことに気づいた。顔を上げると、窓の外から光が差し込んでいた。ゼクロムが小さく唸る。喜びの声だった。
「ああ、晴れたみたいだね」
マツバが眼を細める。その瞳に、影を見つける。笑顔を絶やさない彼なのに、その影はどこから来るのだろうか。
「僕は、N……」
「うん、君は、N」
よろしくと微笑み、マツバが手を差し伸べる。
「よろしく、N」
Nも手を差し伸べる。二度目に握った掌は微かに熱く、人間の体温を感じた。