妻
しかし、松があの教員の家を出て、私の見つけてきた小さな平屋に移り住んでから式を挙げるまでの一週間は、なにやらこそばいような落ち着かぬ心持で過ごした。十四も年下の、まだまだ娘といったような小柄な松と比べ、自分などは野暮ったく、並んでみれば父子のようですらある。結納式で初めて妻の顔を見る男もまあ少なくない、というのは分かっていたが、しかしそれがいざ身の上となってくるとどうにも落ち着かない。布団も、同じ部屋に並べた松に「いや・・・、ああ、そうだな。今はな・・・ああ」とごちゃごちゃと述べて、障子一枚隔てた別々の部屋に敷きなおした。
あの人も、何も俺ではなく、海軍ならばもっと目鼻立ちの良い若い男もいるだろうに・・・、と今更ながらに貧乏クジを引かせてしまった松の哀れさを思ってなにやら恨めしく思うような気もした。
祝言の終わった夜、世間で言うならば初夜とでも言うのだろう夜も、やはり松がぴったりとくっつけていた布団を自ら隣部屋まで引きずった、が、しかしふいに松がその布団の上にぴょこんと座って重石になってしまった。流石に驚いて「松・・・」とすっかり困って松を見下ろした自分に、松はにこっと微笑んだ。
「今日は初夜ですよ」
「いや、しかし、自分と松は十四も年が離れているんだ・・・なんだったら俺がもっと若いやつを見つけてきてやる。・・・今ならまだ・・・」
と手をつける事なども考えられずに、考え事をする悪いくせでだんまりを決め込んだこの野暮ったい男を、立ち上がった松はそっと抱き締めた。
「カフェーで私は、あなたの一挙動一挙動をじっくり見て思いました。・・・・お腹の底では、来ないだろうと思っている気まぐれな相手を、それでも律儀に待ち続けるあなたを見て、私はあなたなら、きっと、私を大切にしてくれると思ったんです。そうしたら、私はたちまちあなたが愛しくなったのです」
松の方が一枚も二枚も上手だった。
そうして、松と私は夫婦となった。
それからすぐにまた前線と後方部隊をつなぎ合わせる運送屋として、海底をじっと・・・クズ鉄と一緒になって息を殺して何度か行き来した。妻子を持つと未練が残る、というのは兵ならば誰もが怖れるものだったが、不思議と自分はそんな風には思わなかった。むしろ地に足がついたような気さえしていた。海底の気圧がキリキリと鼓膜を揉み、アジアの熱帯夜のような蒸し暑さや息苦しさすらも居心地が良いと感じるほどに体に馴染んでいく。そうやって何度か往来を繰り返し、無事に補給を終える事ができ、また本土で多少の休暇を取ることができた。いや、その休暇も人間の休暇ではなく艦の確認整備の潜水艦様の休養のおこぼれを貰ったような休暇だ。
出迎えた松は、風呂もままならぬオイルと汗臭いだろう汚い体を嫌がる素振りも見せずに「おかえりなさい」と喜んで子供のように抱き締める。それを、どうして愛しくないなどと思えるだろうか。松はくるくると嬉しそうに笑い、自分が不在の頃にあった話を喜んで話し、キュウリの塩もみしたものや、トビウオの燻製を焼いたものや白米を嬉しそうに運び、何か危険な目には合わなかったか、と心配そうに自分の顔を見つめる。これで、どうして愛しくないなどと感じるだろうか。松と話すほど、顔を付き合わせるほど、抱くほどに松を愛しいと思う。
松のように率直な喜怒哀楽の表現の仕方ができぬ自分は、軍から特別配給されたバターも米も味噌も酒もなんでも松にくれてやり、すると並べられた貴重で高価な食材に、すごい、と喜ぶ一方で、しかし隣近所に罪悪のようなものを覚えるように少し表情を曇らせる松に「うちはふたりだから、お隣に少し分けてやりなさい」とだけ言ってしまうと松はそれでもう安心したようにはにかんだ。
そんなあまりに無垢で無知な妻を守ってやらねば、と更に思う。
軍に戻る前、松はいつも気丈に振舞おうとするが、それでも表情の曇る松に何度も「敵とは会いもかすりもしないただの運送屋だから。まあ、その分手柄ともかすりもしないがな」と言って笑わせてやってから家を出る。実際は、補給部隊を絶つことができたならば敵としては戦を仕掛けずとも放っておくだけで相手は潰れるのだから、これほど楽な事はない。大した装備もない補給部隊こそが標的にされるのだ、とは決して話さないでいた。
松はただ私の事ばかりを気にしていたが、私としてはむしろ松の身を案じていた。
いくら出世とは遠い補給のドン亀乗りだとはいっても、軍の戦況が聞こえてこぬわけじゃない。近頃では海軍の目を盗んだ敵機が本土の空に現れるというのだから、心配せぬわけはなかった。男手も、頼れる人間もいない松を、一体誰が守ってやるというのか。だがそれは皆同じこと。言っても仕方のない不条理のこと。黙ってただ荷物を運ぶ。それだけだ。
そうして松と夫婦になってから、しばらくが過ぎた。
本土が大規模な空襲にあったと陸(おか)に上がってから聞かされ、顔をしかめたところで家を任せてある水交社の海軍家族を支援する部署の人間が自分に会いたいと話をつけてきたところで、嫌な予感がした。
そして差し出された真っ白な絹に包まれたものを見て、ああ・・・、と言葉を失い、しかし奇妙なほどに冷えた気持ちでそれを見下ろす自分に、部署の人間は淡々と説明をした。空襲があった後、家の前の路地で亡くなってを近所の方が見つけ、うちまで連絡をしてくださったお陰だ、と。そうでなければ身元の分からぬ遺体がどうなっていたかは分からない。しかし夏場の事で、自分の帰りを待つ間もなく火葬してこうして自分の帰りを待っていた、というような事をぽつりぽつりと話した。自分は男から松を受け取り、頭を下げた。
「お手数をお掛けしました」
そして、家を引き払って市外にあるより小さな家へと移り、また一人に戻った。
それだけの事だった。