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もうひとつの日常

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指の先に人差し指を当てて微笑んだ海江田に、山中の手の中でシャリはもはやおかゆのようにどろどろに握りつぶされ、いや絞られてしまっている。山中はごくりと大きく頷くと、「ね、ネタを仕入れてきます!」と言いおき、そして両津のところまで走ってきたのだ。





しかし両津にそう囁き込まれてしまうと、そういう気分になる。
確かに自分がいくら寿司の握りかたを覚えたとしても、艦長を自然に誘えるかどうかは別だし、そもそも艦長を誘ったとしてどうやって寿司を食べてもらうまでに持ち込めるというのか・・・事前に一言言ってもらえたら、とも思うがそうするとそわそわしていても経ってもいられなかったかもしれない。


「お前、あの艦長にうまい寿司食わせてぇんだろ?」
「はい」
「誕生日祝ってやりてぇんだろ?」
「はい!」
「じゃあうめぇ寿司握れるんだな!?」
「はい!!」
「よぉし、握ってこい!!」


両津にどんと背中を押され、山中はぴゅんっとカウンターまで戻っていった。
残った両津は、ふぅっと息を吐いて、咄嗟に隠したままになっていた札束をきちんと自分の財布へと突込み、その財布をまた誰も触らないような魚を運んだ後の発泡スチロールの中に隠し、いつでも自分が監視できるようカウンターに隠したのだった。



山中は自分に渇を入れるように両頬を力いっぱい叩き自分の体に、いつもの冷静沈着な山中栄治を思い出させ、さっき両津に見せたとは思えない落ち着きでカウンターに戻ってきた。カウンターに座って店を見回していた海江田も、戻ってきた山中に表情を和らげる。


「じゃあ何を握りましょう?」
「君のお勧めからもらおうかな」


にこりと微笑んだ海江田に山中は頷き、山中は取り出した鯵を手際よく捌き出す。これまで両津に身をぐしゃぐしゃにすりつぶす気かだの、骨が残ってるだろしねだの、触りすぎだろうがだのと罵倒されながら、何匹も何匹も裁いたものだ。それをさっさっさ、と手際よく、それこそ武士が刀に精魂全てを注ぐような真剣さで鯵を捌き、また手際よくそれをシャリに撒いてあっという間に二貫作り上げて海江田の前に差し出し、海江田はそれをひょいと摘まむと、軽く醤油をつけて口に運んでいった。


「ここ一番嬉しい誕生日プレゼントだった。それに今まで食べた寿司で一番おいしかったとも」


店には海江田と山中、それから数人の客の相手をしながら、海江田相手に山中がいかに自分のスパルタに堪えたか、と声高に主張する両津しか残っておらず、昼間の喧騒もどこへやら、すっかりいつもの静かな超神田寿司に戻っている。そして山中が次々に握る寿司を平らげて、熱いお茶を飲んでようやくそう言葉にした海江田に、山中の表情が驚きと共にぱぁっと明るくなる。知ってたんですか?とそう顔が言っていることに海江田は苦笑しながら頷いた。


「随分と前からそわそわとしていたからね」
そう言われてしまえば山中は表情を変えずとも、首筋から耳がしゅっと朱でも吹き付けたかのように赤く蒸気する。それを見てまた海江田がくすりと笑ったとき、がやがやと賑やかな一行が店に入り、隣で「らっしゃいませー」と言いかけた両津の表情が硬直する。


「今日は両ちゃんが御寿司を振舞ってくれるんで、部長やけいちゃんと一緒にきちゃったわ」
「れ、麗子・・・」
「両津!商店街のみなさんに“格安”で寿司を振舞うなんて、お前ももっと地域の皆さんに日頃の感謝を・・・」
「両津さん格安って?」
「あ、や、山中、いやそれは・・・」
「え?僕は先輩が新人の人の修行だからって、いつもの半額で振舞ってるって聞いたんですけど」
「ばかっ、おまえそりゃ・・・」
「両津さん、自分は調理師免許もない公務員だから“タダ”で振舞うって・・・!」
「両津!!!一体どういう事か説明したまえ!!!」



それまでの温厚な表情が一変、修羅か羅刹のような表情になりピシャリと怒鳴りつけた部長の言葉に両津はカウンターに隠した現金の入った発泡スチロールを抱えて飛び出そうとし、それを今までの恩も忘れて自衛官の顔へと戻った山中がひょいっと足を引っ掛けて両津を転ばせれば、両津の腕から飛んでいった発泡スチロールの箱の中から飛び出した札が、まるで紙吹雪のように宙に舞い、大原部長の震度8の怒号が超神田寿司に響いたのだった。









おまけ






「いやはや、お恥ずかしいところをお見せしました・・・」

帰り道、海江田と連れ立って歩く山中はもう穴があったら入りたいような気持ちで何度目になるかわからぬ謝罪の言葉を漏らし、海江田が苦笑する。

「まあ、良いじゃないか。自衛官、それも潜水艦なんて乗っているとどうも社会が狭くなると言うし、良い勉強になっただろう。それに、プライベートでもこれから握ってくれるんだろう?」
「は、はい!いつでも・・・!」
良い返事だ、と海江田は微笑み返し、それだけで山中はここしばらくの地獄のような特訓の成果があったと、むしろ両津に金を払いたいほど、じぃ~んと胸を熱くした。


「何より、楽しかった」


あんなに笑ったのは久しぶりだったよ、とまるで昔の小学生のように正座をさせられガミガミと般若の顔をした上官に叱り付けられる警察官というのも面白いし、信じてたんですよ!と悪徳商法に騙された被害者のように訴える山中も珍しい絵面だったし・・・と歌うように言った海江田に山中はその大きな図体を小さくするように首をすぼめた。




「それにほら」

海江田がぱっと見せた携帯電話を見て山中は赤面する。
――――――待ち受け画像には、自分が板前の格好で寿司を握っている写真が設定されていた。
か、艦長、これ・・・と指差す山中に海江田は「息子の待ち受けと一日交代で設定しなくてはな」と笑って、まるで鼻歌でも歌いだしそうな、スキップでもしそうな機嫌の良さで絶句して立ち止まった山中を置いて歩いていった。




「やっぱり艦長には敵わないな・・・」


苦笑した山中は、すぐに海江田を追いかけるように走り出した。
作品名:もうひとつの日常 作家名:山田