もうひとつの日常
そんな麗子の決心に気づくはずもない両津は、幕の内弁当をぺろりと平らげたのだった。
「よぉし!今日からネタを握ってよし!!!」
ようやくその言葉が出たのは、銀シャリを握り出した三日後だった。あともう少しで艦長が広島から帰ってくると、内心で焦りを覚えていた山中は両津の言葉に心底安堵し、また感激した。この男、この繋がり眉毛の一見いい加減そうな男はしかし厨房に立てば立派な職人。腕は確かだし指導もきっちりとしている。決して甘くない男だ。その男から、こうして出された許可に山中はついにここまで・・・!とじーんと胸が熱くなるのを覚えた。
「しかしな、ネタとなると料金がちと上がるぞ。なんせ市場から魚を仕入れてこなくっちゃなんねぇから」
「ああ、それはもう・・・。ここまで来たんだから諦めずにやり遂げるつもりです。経費が上がるのだって仕方がない」
しっかりと頷いた山中に、またにったーーと両津が腹の中で笑ったことなど山中が気づくはずもない。そしてその日からネタを下ろすことから始まるかに思われた、が・・・しかし、
「だが魚は生きもんだ。練習にぽいぽい捌いて捨てるには惜しい。それに誰かに食ってもらった方がアンタの腕だってもっと上がる」
「ま、まさかもう誰かに・・・?」
「そうだ。でも調理師免許がねえからタダで提供って事になるぞ。ど素人の寿司を無料提供するんだ。それでアドバイスでも貰えりゃアンタも万々歳。この21世紀にふさわしく食料も無駄にしない。どこの寿司屋もそういう事やってんだ」
なるほど。寿司の世界のことは知らないが、確かに握って握って、握るだけの寿司を片っ端から食っていく時間も惜しい。それより握った寿司を食べてもらって、何かコメントでももらえれば自分や両津が気づかなかった生の声ももらえるというもの。何よりもったいなくない。そういう風になっているのならば郷にいれば郷に従え。
「わかった。しかし、こんな素人の寿司を一体誰が食べてくれるっていうんだ?」
「そりゃまかせとけ。うちの商店街の連中が協力してくれっからよ」
どん!と胸を叩いてにやりと黄色い歯を見せた両津が、山中には頼もしく光って見える灯台のようにすら見えた。
――――――初日
超神田寿司。その日は“特別に”寿司が振舞われるというので店はいつもの倍の客でごった返し、山中は休憩する間もなくせっせと真剣に寿司を握る。時折カウンターの向こうから商店街の人間に「新しい職人か?」と声を投げられるのだからその腕前も、味に五月蝿い下町の人間を喜ばせられるものだったのだろう。だが山中は次から次へと入ってくる注文を聞き逃さないよう言葉を拾うにで必死であり、次から次へと遠慮なくかけられるコメントに頷き返事をするのも忙しく、まさしく目が回るようであった。しかし、忙しいことも嫌いでなければ、すべては艦長の為!ここで投げられる言葉全てが艦長の為なのだ、と思えばそれだけでやる気と闘志が沸く。
(艦長・・・!見ていてください!この山中、きっと艦長の舌を満足させられるものを握ります・・・!)
すっかり一足もまばらになった夜、裏方では――――――・・・・・・
「両さん、ありゃ誰だい?随分骨のあるのを見つけてきたじゃないか」
「ほんとだよ、今時の若者・・・まぁ、若者って年でもないようだけど、それにしちゃ良いねぇ」
「まぁ、ネタが両さんよりちと厚いのは気つけた方がいいな。あれじゃ紫に合わんだろ」
「たま食わせてから白身出しちゃ後味が悪いだろう。そこんとこ気をつけさせてくれや」だのの細かい指摘はあったが、商店街の飲み仲間のおやっさん達から掛けられる言葉に、両津も満更ではない様子で頷く。
山中の真面目さ、頑固さ、それから艦長を喜ばせたいという盲目的な献身というか部下心というか、行き過ぎた忠誠心というか、そんなものと両津の教え上手が混ざって山中はここ短期間で訓練されたとは思えないほど器用にやってのけているらしい。
「で、ありゃどっから掘り出してきたんだ?ん?」
「んなもん秘密だよ、秘密。企業秘密だってんだ」
「まぁ、近頃は不況だからねぇ。脱サラかリストラでもされたんだろ?」
「えぇ?ありゃァどう見ても公務員だろうが」
とその素性までああだ、こうだと詮索されるが両津は「企業秘密ったら、秘密だ」ときっぱりと言い放って、おやっさん達の前に手を差し出す。「はは、両さんはしっかりしてやがるなぁ」とおやっさん達は、財布やポケットからくしゃくしゃになった札を取り出しては両津に握らせて、「また来てやっから、次はサービスしろよ」と笑いながら出ていった。
「あざっしたー」とへらへらっと笑った両津は裏方に回り、こそこそっと集まった札を、銀行屋よりも手早くパララララ・・・っと勘定し、その金額ににんまりと笑う。
「しめて14万飛んで825円・・・・明日からは高いぐんかん握らせて・・・・」
「両津さん・・・!」
「おぉぉう!なんだ、バカヤロー!驚かすんじゃねぇよ!!」
急に暖簾を潜ってひょいっと顔を出した山中に両津は怒鳴り声を上げて、その派手なパフォーマンスで山中が目をぱちくりとさせているうちにマジシャンのような手早さで札を隠した。いかにも怪しい様子だったが、山中はそれどころではない。まるで女子生徒のように頬を赤らめ、瞳孔を震えさせて、わなわなと暖簾の向こう、店のカウンターの方を指差して震えている。角刈りが震えていたとしても鬱陶しいことこの上ない。
「おう、来たか」
「き、来たかじゃないですよ・・・!かかかか、か、かんちょ、艦長がそこに・・・!!カウンターに・・・!!!」
「ワシが呼んだからな」
あっさりと頷いてどっこらせと立ち上がった両津の言葉に、山中は頭をガツーンと殴られたように衝撃が走る。
あわあわ、と目を白黒させる山中の肩をぽんと叩いて、両津はその耳に囁く。
「このワシがわざわざ自衛官のツテを頼って、お前の敬愛する艦長の帰還日なんていう極秘時候を調べてやって、かつこうして呼んでやったんだ。あ、こっちに帰ってきたのは昨日、今日一日の休養を挟んで明日通常任務。まぁ、んな事ァおめぇも知ってっと思うけど、お前が「自分の握った寿司を食べてくださぁい」なんて言うよりワシから呼んでやった方がずっと自然で良いだろうが」
そう言われるとそんな気もする。だがしかし、“心の準備”というものがある。
「おや、山中、随分似合っているじゃないか」
せっせと真剣に握ることだけに集中していた時、ふとカウンターの向こう、自分の真正面に座った人がいた。入れ替わり立ち代り消えていく客、座ればすぐに何か注文がくると「いらっしゃいませ」と顔を上げたところで、目に飛び込んだその人に山中は思わず握っていたシャリを握りつぶした。しかし、その人こと海江田四郎はにこにこと微笑んでいる。
「かっ、かっ、か、かんち・・・」
「シー。ほら、副業は違法だからね」