黄金の鳥かごの中で
思春期の目覚め
昔、あの男の寝所に隠れていたことがある。
何故隠れていたのかはもう忘れてしまった。
ハレムの同じ年頃の子供とかくれんぼでもしていたのかもしれないし、男の寝込みを襲ってやろうと思ったのかもしれない。東の国から何ヶ月も船に揺られて運び込まれてきた男の気に入りの籐の衣装箪笥の中、日の光が網目の間から刺すように入り込み、衣装箪笥の中に溢れる男の残りがすらも不思議と心地良くハレムの女達が手慰みに吸うナルギルやハッシシのあまやかな匂いや賑やかな声、コーランを朗読する朗々とした声が遠く届く狭い衣装箪笥の中、小さな網目の光の中で、男を待った。頭上にぶら下るいくつもの男の装束からは男が奴隷に焚き染めさせたアラブの乳香の香りが仄かに残り、男の体臭と入り合ってまるで男の腕の中にいるような妙な心地になった。それでも甘くまどろむ昼下がり、永遠のような時間の中での終わらない平安な午後、うつらうつらと男を待った。
そして、男はやってきた。
俺はほくそ笑んだかもしれない。
男の無防備さににやける口元を噛み殺したかもしれない。そんな事はもう覚えていない。ただ眉を寄せたのは確かなことだった。
女が一緒だった。
ハレムの女だ。一度、頭を撫でられたことがある。このハレムにとっては異教徒と言わざるを得ない装束を着るこの頭を撫でながら、女があえかな面持ちで微笑み、立ち尽くしたこの体をやわらかな腕で抱きとめた。――――――母さまに、似ていた。
だが、スルタンに寵愛されなかった女。じき、嘆きの家に送られることになるだろうと噂されているのを耳に挟んでいた。そんな女と男が一体何を、と思っているうちに二人は雪崩れ込むように寝具に倒れこんだ。
出るに出られず息を殺して、ただ小さな小さな網目の間から男と女の様子を見守った。
丁寧に女の装束を剥いでいく、男の体がありありと目に見えた。普段は重たい装束に隠した身体が露になっていくと、俺は女にではなく男の身体に息を呑んだ。がっしりとした筋肉は均整が取れ、大きな手が女の身体をまさぐっていけば、やがて女の口からは聞いたことのないような切なく甘い声が上がり、男が心底楽しそうに口角を持ち上げその額の間を汗が一滴零れていく。その顔に、壮絶な雄の匂いがして、男から目が離せなくなった。
男の抱く女の姿にどこか母さまの面影が浮かべば浮かぶほど、ふいに自分の姿が重なって見えひどく自分を狼狽させた。
ふいに、男と目が合った。
男は一瞬目を瞬かせたが、すぐににやっと笑うとそのまま女を抱いた。
女の乳房に顔を埋めながら、ふいにこちらへと目をやり傲慢にその瞳を歪める男に鳥肌を立てた。
やがて女が眠ったようだった。
光の間から見えていた光景はやがて夜の闇の中に消え、ただ背筋を凍らせるようにして身体をかたくしていたら、男が衣装箪笥の戸を開けた。軽く装束を羽織っただけで、まだ濡れる筋肉が仄明るい蝋燭の火に照らされ汗に光っていた。
「かくれんぼなら他所でやりな」
男が雄ではなくもう男のいつもの顔をして苦笑するように穏やかに笑い、俺の頭を撫でた。俺はぷいっとそっぽを向いて、頭を撫でる男の手を振り払って痺れる足の痛みを堪えてうさぎのように男の寝所から飛び出してかけた。その背中を、いつまでも男が見ているような気もしたし、もう男は俺に興味などなくして女の髪を撫でるのかもしれないという気もしていた。ただただ頭の中には男の雄と、汗が乱反射するようにちらついて、胸の底から熱が込み上げた。
やがて嘆きの家へと送られることになった女を、男が密かに男が宮殿の外に持っている屋敷へと引き取ったと耳に挟んだ。
男にあの日のことや、女の話を聞くことはなかったけれども、男の顔を眺めているときにふいにあの時の雄の匂いをさせた壮絶な笑みを思い浮かべることがあった。男はまたあんな顔をして、女を抱くのであろうかと思う時もあり、そうすると胸の底が焦げるようにチリチリと熱く苛立った。そしてあの日のことはいつまでも胸の底に何故か残っている。
あの衣装箪笥の中に隠れていた時とは違ってはるかに大きくなった手で男の鎖骨に手を当てながら、あの日のことを思い返していれば男が一瞬眉を寄せて「?」を浮かべている。あれからもう二百年近く経った。あのハレムでの日々も、衣装箪笥の中に隠れた日も、気がつけばもうずっと遠い昔になっていた。あの日、あのハレムの中にいた人間も、もう誰も生きてはいない。
―――――――この男は、二度、“母”を失ったのだ。
「・・・お前は馬鹿だ。馬鹿サディク。結局お前の手には何も残っていない。」
んなこたぁ、言われなくても分かってんだ、と男は吐き出すように笑って、俺の後頭部へと腕を回して強引に口付けた。