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仰げば尊し

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恋は盲目.2



あの臆病な大人を、好きになってしまった自分が悪いのだ。
阿部は罵りたいような蹴倒したいような気持ちで己のことを罵倒する。お前はバカかと。むしろアホかと。その視神経は本当に大丈夫なのかと。胸の内でまくし立て、最後に出てくる言葉にいっそ絶望する。
知ってんだよ、んなことは。
全くもって自分はバカだしアホだし自慢の視神経は清々しいほど役に立っていない。榛名を見ていて得られる気持ちなんて、苛立ちと腹立ちともどかしさと淋しさ。無防備なくせにあっさりと、近付いては離れていく人を見て、ほかにどう思えと言うのだろうか。いつだって遠くを、的外れなものばかり見ているあの目は、そのくせ偶に自分を見るときには差し込んでくるように見える。胸にグッと何かを差し込んでくるように見える。触れさせはしないくせに、そういうことをする。なんにも考えてはいないくせに。
あぁ嫌だ。あぁ、本当に、嫌だ。
しみじみと思いながら阿部は足を進める。古びた扉の前で足を止め、障害物をものともしない煙草の香りに眉を寄せた。その表情のままで一つ息を吸うと、吐き出す勢いのままにノックをし扉を開ける。
「失礼します」
開け放った先で、榛名は遠くを見るように少し目を細めると、そのまま目元を和らげた。
「おぉ。久しぶり」
笑顔で言われた、そんなつまらない言葉に、ついさっきまであった苛立ちをねじられたように、あるいはふと治められたようにも感じられて、阿部は眉をますます寄せる。あぁ、このどうしようもなさ、本当に嫌だ。
誰もいない生物室には、卒業式が終わったあと、学校中そこかしこに流れている浮ついた空気も届いていないように思える。阿部はすっかり余所余所しくなった、かつては自分の鼻にピッタリと馴染んでいた空気をゆっくりと吸ってみる。そんなことをしても生物室は知らない顔をして、置いていく阿部にそっぽを向いたままだった。手探りの距離感が見つからないまま、教官室から榛名が戻り、阿部にそっけない包みを差し出した。
「ほれ、やるよ」
不器用さと面倒くささが滲み出ているセロハンテープの貼り方に、阿部は一瞬だけツンとしたものを堪える。何でもない顔を作って「独創的な包み方ですね」と言ってやると、榛名は子供じみた顔で唇を尖らした。それに笑うと、もう、やることがなくなってしまう。途方に暮れた空気が二人の間に流れ、思わず口ごもった阿部に榛名が告げた。
「卒業、おめでとう」
思いのほか真摯な口調だった。顔を上げれば声と同じように真摯な目をした榛名がいて、阿部と目が合うとちょっと笑った。だからこの期に及んでそういう顔をするなと思う。
そういう、淋しそうな顔、すんな。
「また来ていいですか」
つるりと出た言葉に、目を丸くしたのは二人一緒だった。何を言っているんだオレは、と思う間も無く榛名の声がする。
「何で?」
そのいっそ間抜けな声に、カチンと来たのでもういいや、と思った。もう、どこまでもカッコ悪くていいよ。
「アンタがまだ好きだからですよ」
ふて腐れた阿部の言葉に、榛名はギシリと固まると、助けを求めるように窓の外を見た。次は黒板。その次は、天井。何も書いていない場所を次々に見つめ、最終的には阿部から目を逸らした形で俯きながら頭を掻き始める。困りきった様子の榛名を、物珍しそうに眺めていると、榛名がふと阿部を見た。睨みつけるような、差し込むような、あの目。
「あのさぁ」
ため息交じりの声。怖くはない。残念ながらすでに嫌われるのも何にも怖くはないのだ。ただ、なかったことにだけはさせない。そんな気持ちで睨み返すと、榛名は本当に、本当に困惑した顔で言葉を続ける。
「お前、オレのどこがいいわけ?」
「そんなことはオレが聞きたいですよ」
何でアンタなんか、と吐き捨てるように言うと、あーそうかい、と疲れたように呟かれる。
「オレはさぁ、多分お前が思ってるより、ずっとつまんねぇ大人だぜ?」
未だに過去にこだわって、引きずられたり未だにしてる。それをつまらないことだと言う榛名を阿部はじっと見ていた。三年間ずっと、嫌だ嫌だと思いながら視界の隅に割り込んでくるこの姿。
「それにオレ、男だしな」
当たり前のことを告げて、榛名は考え込む。そうして考えても考えても、どうしても揺るがなかったらしい思いを続ける。
「お前、お前さぁ、もっといいヤツ、他にいるだろう……?」
何でオレなんだよ、と俯いてしまった榛名を見ながら阿部はただ立ち尽くす。貫いた思いが大きすぎてただ立っているしかなかった。
この臆病な、どうしようもない大人が、どうしようもなく好きだ。
いつの間にか入ってきた笑顔や強さだけでなく、そっと根付いている傷や弱さにも触れてみたい。突き放された痛みが、何気なく自分に向けられたストーブの熱でそっと溶けたみたいに、柔らかくこの人に手を伸ばしてみたい。常に遠くを見ているから、曖昧になる輪郭を触れて確かめたい。どこにいても見失わないように。そうしていつか、見ているうちに、いつの間にか自分にもついた傷や痛みに触れて欲しい。
こんなことを思うのは、今目の前にいるこの人にだ。
この欲望が何に起因するのかなんて分からないけれど、たったひとつの言葉で片がつくなら何度だって言う。
「好きなんです」
それしか知らない子供みたいに繰り返す阿部に、榛名は視線を向けると困ったように笑った。その笑みが深くなればなるほど阿部は胸が軽くなる。最後には榛名は無邪気にも見える笑顔になったが、どんなにイタズラ小僧のような表情になっても、どうやっても大人は大人なのだと次の言葉で実感した。
「このままお前に流されたら、それはそれで楽しいかなって思うんだけど。でもオレの中でお前はやっぱり子供なんだよな」
子供は思い込みだけで突っ走るから怖いんだよと言う、臆病な、どうしようもない大人は、どうしようもないだけにズルイ大人なのだ。
「でも、このままお前と離れるのはちょっと惜しいと思う」
榛名の目が、ニヤリと光る。阿部はその目を真正面から覗いてしまってたじろいだ。あぁ、ダメだ、捕まってしまう。
「だからさぁ、ここを出て、色んなもん見て、いつかお前が大人になって、そんでもまだオレのコトが好きだってんなら、そん時は考えてやってもいいぜ?」
ケケケ、と楽しげに笑い声を上げる榛名に歯噛みする。そんな言葉で「あぁそうですか」とあっさり引き下がれると思っているのだろうか。そして自分が大人になって、この気持ちは勘違いでしたという結論を出したらどうするつもりなんだろう。それこそ「あぁそうですか」とあっさり諦めるとでも言うのだろうか。アホかと思う。しかしそんな言葉で確かに喜んだ自分だって相当のバカだ。あぁ嫌だ、と榛名に出会ってもう何度目か分からない言葉を胸で噛みしめながら、阿部は出来る限り平坦な声を作って呼びかける。そんなことを言うのなら、こっちはもっと強力な呪いをかけてやる。
「モトキサン」
初めてする呼び方に、榛名が驚いたので少しだけ溜飲が下がったが、まだ足りない。
「いつか、アンタを攫いに来ますよ」
榛名は目をまあるくすると、クスクスと笑い出し、そのまま両手をヒラリと掲げた。
―――――降参のポーズだ。
思い至ってようやく阿部も笑い出す。
作品名:仰げば尊し 作家名:フミ