仰げば尊し
夏は向日葵
自分が通う高校の裏庭の一角に、小さな花壇があるのを見つけたのは偶然だった。
「丁度いいから、コレも持ってけ」
授業帰りの榛名に廊下で押し付けられた荷物を生物室へと運ぶ際に、たまたま視界に入る。何と無しに目をやり、柔らかく慣らされた黒い土を見て、誰か何か植えるのだろうかと首を傾げた。阿部家では母が弟の世話以外にはガーデニングに情熱を燃やしており、腐葉土を混ぜた土の色とは馴染みが深い。そう言えば、最近も自分の家の庭であの色の土を見た。また野球観戦に行く足を止められ、庭の整理に駆り出されるであろう父の丸い背中を思って、クスリと笑う。そのときはそれで通り過ぎた。
ひっそりと佇むものが脳裏を過ぎったのは、無理やり持たされた荷物から解放されたときだ。バサリと音を立てて、乱暴に置かれた書類の束を無表情に見やってさっさと踵を返す。ドアノブに手を伸ばしたタイミングで、都合よくドアが開いた。驚いて目を瞬かせる阿部をよそに、荷物の持ち主が生物室へと入ってくる。
「お、ごくろー」
机に置かれた荷物を見て、笑う。その笑顔になぜか苛立ちのようなものを感じながら、「いえ」とかそんなことを口の中でもごもごと唱えた。そうして、ふと、あの花壇が写真みたいに脳裏に浮かんだ。
「あの」
思うよりも先に言葉が出てきて阿部は戸惑う。きょとんとした目を榛名が向けてくれば、尚更だ。しかしここで引くわけには行かないと、誰ともなしに立ち向かうように阿部は言葉を続けた。
「裏庭の花壇って、誰が世話してんすか?」
突拍子も無い阿部の言葉を、受け止めかねたように榛名は二三度瞬きをする。そして言葉が何を差しているのか理解すると、目の色を少し深くして「あぁ」と呟いた。
「オレ」
「はぁ?」
想像することすら無謀としか思えない答えが返って来て、阿部の返事は奇妙に抜けた声になる。その声に、面白く無さそうに眉を顰めた榛名だったが、阿部の驚愕、という言葉を貼り付けた顔に、思わず、といったように吹き出した。そしてそのまま笑い続ける。
「オレだよ、オレ。何驚いてんだよ」
似合わねぇからだよ、と言えるはずも無い阿部は、再び「いえ」とかそんなことを口の中でもごもごと唱える。楽しげな榛名の顔を見ているうちに、気になることが胸から湧いた。
「……何、植えるんすか?」
阿部の小さな問いかけに、榛名はイタズラっぽく「ナイショ」と言った。大の大人がかわいこぶってんじゃねぇよ、と思わなくもなかったのだが、どこまでも楽しげな榛名の様子を見ていると、やはり何も言えなかった。
その日から阿部は、裏庭が見える渡り廊下を通るたびに、花壇に視線を向けてしまう。花壇の前に誰もいない日もあれば、それこそ榛名がつまらなそうな顔で水遣りだの草むしりだのしている日もあった。人がいようがいまいが、花壇に視線を向けてしまった自分に舌打ちをしたい気分で阿部は目を逸らす。そんなことを何度も続けて、制服の袖が長袖から半袖になる頃、植えられている植物の名前を知った。
「せんせー、何してんのー?」
女子の騒がしい声が、無理やり剥がした意識をまたもとの位置に戻す。阿部は再び視線を花壇の方へと移した。くわえ煙草の榛名は、まんざらでも無い様子で「水やってんだよ、見て分かるだろ」と軽く笑っている。女生徒の、無邪気に作られたような甲高い笑い声が裏庭に響いた。見ることも、聞くこともしたくなくて、せめて視線を逸らした阿部に、容赦なく声は追いかけてくる。自意識で足を速めることも出来なかったからか、尚更はっきりと聞こえた。
「これなに?」
「向日葵だよ」
あっさりと言われた答えはじんわりと脳裏に残り、阿部は堪えきれずに目を閉じた。
夏になると、榛名は外に出るときは麦藁帽子を被るようになった。ただひたすら実用的な、つばの広く大きなものだ。「だっせぇ」と思わず呟いた阿部の頭に、コツリとこぶしが乗せられる。
「うっせぇよ」
見上げた夏の陽射しが眩しくて、目を逸らす。俯く阿部を気にした様子も無く、榛名は思い当たったように「あ」と声をあげた。
「丁度いいから、来いよ」
いつかのような物言いで、手を引かれる。少し眉を顰めた阿部が大人しく連れて行かれたのは、黄緑色の茎が力強く天を目指す、小さな花壇の前だった。
「ここまで育ったら、何が植わってるかお前にも分かんだろ」
楽しげに笑う榛名をぼんやりと見上げる。あやふやな自分の中で、榛名の輪郭だけはやけにくっきりと見えた。
「……向日葵……」
小さく呟いた自分に、榛名は「セイカイ」とますます笑みを深める。喉がやけに渇くことを、知られたくなくて自分よりも背高く成長した植物に視線を向けた。隣に立つ榛名が、同じように花壇へと視線を向ける。
「……好きなんですか?」
ポツリと落とされた問いに、榛名は首を傾げる。そして硬く閉ざされた蕾を見て少し笑った。
「嫌いじゃねぇな」
太陽にまっすぐに向かう、花を仰ぐ榛名の横顔を盗み見ながら、素直じゃない、と思った。
麦藁帽姿の榛名をすっかり見慣れた頃、三年生のいない部室にもまた慣れ始めていた。夏休みも終わりに近付いていた。差し入れのアイスを齧りながら、阿部は説明のつかない気持ちを持て余す。笑いながらアイスを食べる三年生と榛名の目は、同じようで違っていた。その色の違いを、上手く説明することは出来ないけれど、違っていた。それを見て、自分がどう思っているのかが掴みきれずに阿部はぼんやりと視線を逸らす。蝉の声が、やけにうるさく響いた。
暑さと疲労でぼうっとする頭を抱えて、阿部は裏庭へと向かう。休憩中の水道は、混み過ぎている。グラウンドから程近い水飲み場を諦めて、よろよろと力弱い歩き方で、裏庭に繋がる水道を目指した。グラウンドから離れたところにあるせいか、この水道にはいつ来ても余り人がいない。阿部もよほど混んでいない限り、近くの水飲み場を使う。だから、夏休み中でも花壇の世話をしている榛名の姿を見ることは、余り無かった。混んでいたから、と言い訳めいたことを胸の内で唱えながら炎天下の中を歩く。白いコンクリートから昇る陽炎は、蝉の声と相まって、自分の意識をどこか遠くに追いやる。ぼんやりと、求めるものを見つけたい一心で上げた視線の先には、榛名がいた。すぅっと、頬を伝った汗が首筋へと落ちた。
榛名は自分で植えた向日葵を見つめていた。暑さはゆらりと視野を揺らす。乾いた砂と汗の匂いをまとった阿部に比べ、緑の中にいる榛名は何だか涼しげに見える。焦点を合わすように目を細めてみても、榛名と向日葵はなぜかぼんやりと、手の届かないもののように見えた。阿部は夏の陽射しの中で立ち尽くす。
向日葵は、枯れている。
ウンザリするほどの暑さは、夏としか思えない。それでも向日葵は枯れ、白い陽射しの中で榛名は俯いた花を見つめていた。
そっと手を伸ばす。榛名の手の中で、向日葵はカサリと乾いた音を立て、黒くなった花弁の一つを地面に落とした。
それがやけに目に付いて、阿部はその場から離れる。静かに、音を立てず、振り返らずに。ゆっくりと歩く自分の足音は聞こえない。阿部は聞こえない足音に耳を澄ますように目を閉じた。優しげな、榛名の指の軌跡が瞼に映る。向日葵。夏の花。今尚ある、通り過ぎた季節に触れる榛名の手。あの目。