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ゆっくりとおとなになりなさい

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 朝練へ向かう道ならば二十分で飛ばせる道を、ゆっくりと踏みしめるように進みながら、阿部はまだこの自転車をどこへ向けるべきか迷っていた。このまま行ったところで榛名が待つと言った駅に辿り着くのは五時を少し回った頃になりそうだった。落とした視線の端に掛かった腕時計の長針は盤面を三分の一ほど進んだ場所で短い針と重なっている。急いで行けばいいのだろうが、阿部にはなぜ自分がそこまでするべきなのかという迷いがある。連絡をしようにも、携帯の番号はとっくの昔にメモリーから消してしまっていた。もしかしたら、本当の本気で思い出そうと思えば、自分は十一桁の数字を記憶の底から引っ張り出せるのかもしれなかったが、できてしまったときのことが恐ろしくてする気にもなれない。
 意外なことに榛名は時間にうるさい。うるさいというよりも自分のペースを乱されることをひどく嫌う。二人がまだバッテリーと呼ばれて間もなかった頃、榛名がいつもきっちりと時間よりも前に行動していることに気付いた阿部は、鞄の中もロッカーの中も性格もずいぶんと適当で雑なことを先に知っていたから、あまりのギャップに驚いた。一年に満たない付き合いの中で、それは目標はプロだと言い切る姿勢と同じものを根にしていることも知ったけれど、それでも神経質に映る程の榛名のそういう部分と普段の破天荒な振る舞いはあまりにも違っていて、あの頃の阿部はどこを基準にして榛名と相対すればいいのかわからなくなることがあった。
 電話で話しただけではあったが、榛名はあの時と変わっていないようだった。それならばきっとシニアの頃にしていたのと同じように、榛名は時間よりほんの少しだけ前に現れて、時間になったら来ない人間を待たずにそのまま行ってしまうのだろう。それなら行っても無駄だと思う。違う、そう思いたいのだ、と自覚があるだけ始末におえなかった。
 顔をあわせなくなってから、そして意識的に榛名を遠ざけようとしてからもう二年以上が経とうというのに、まだそんな細かな癖や行動のパターンをはっきりと覚えている自分に苦い思いを抱えながら、阿部は黙々とペダルを踏んだ。毎日通う道のりは時間を変えるだけでいつもと違う顔を見せながらゆるい速度で流れていった。
 会いたいだなんてこれっぽっちも思っていないのに、こうしてチームメイトの誘いまで断って、なにをやっているのかと問われたら、やっぱりそれにも答えるべき言葉を阿部は持っていなかった。強いて言うなら、その答えを確かめに行くのだと誰かに言っておきたかったがその誰かが思いつかない。もしかしたらそれは自分に対してなのかもしれない、と思いつく前に阿部はそこへ辿りつく思考の道筋を閉じてしまったので、辿りついてしまえば、それは言い訳と括られてしまうものだとはっきりと知ることはなかった。
 のろのろと進むうちに時計の針はするすると回り、緩いカーブのくの字を描く。五時を回った時点で、もうきっと榛名はいないだろうと諦めとも喜びともつかない気分になりながら、駅へと向かう最後のカーブへハンドルを切って、阿部はもう何度目かわからない瞬間的な後悔と、自分へ向かった嫌悪感に捕らわれ、思わずブレーキを握った。
 榛名はいた。
 ガードレールに寄りかかり、だらしなく足を伸ばした後姿。薄手のパーカーのポケットに両手を突っ込んだ榛名は、退屈そうに足を組み替えてちいさく頭を振った。俯くように頭を傾けているせいで、よく焼けた首筋が剥き出しになっている。他の部分がすべて隠れて見えるから、生身の肌は妙に生々しく迫ってくるように思えた。うなじにかかった後ろ髪は、記憶の中のものよりも少しだけ長い。決して柔らかい印象を与えないくせに無骨でもない節だった指がうるさげに前髪を弾き、そしてふと振り返るまで、阿部は木偶のようにカーブの真ん中で立ち止まっていた。振り向いた榛名の眼差しが阿部を捉えゆっくりと瞬くと、それを合図にしたように阿部は立ち止まっていた自分に気付いて、向かい風の中にいるときよりずっと重く感じるペダルを踏みこんだ。
 榛名は姿勢を崩さずに阿部を待っていた。十分に距離を開けてゆっくりとブレーキをかける。停止の直前のゆるやかな力が阿部の髪を微かに揺らした。
「よお」
 車道側に横付けした自転車の上から降りることも、かといって立ち去ることも出来ず、阿部は自分を持て余す。肌寒さを感じられるようになったとはいえ、まだ上着一枚で事足りる陽気だというのに、手足が凍えたように動かなかった。唯一自由に出来ると思った口までこわばっていたが、阿部はそれを榛名に気取られないよう喉を励ました。
「……なんで、いるんですか」
「なんでって、約束しただろ」
 なにを問われているのかまるでわからないと言いたげに、榛名は目を見張る。
「約束なんてしてません。あんたが一人で言いたいこと言って切っただけです。だいたいあんたはいつも――」
 いつも時間に遅れるヤツなんか待ってないじゃないですか。そう続けようとして阿部は言葉を止めた。『いつも』というのは何年前のことだというのか。この目を見てあっという間に昔に引き戻されてしまったのか、それともそれほどまで榛名の影は傍にあったのか。そのどちらも願い下げだった。過去でも現在でも、身の内のどこかに榛名の存在を抱えていたという考え自体が厭わしい。
「行くわけないって、言ったでしょ」
 耳の奥をざわざわと血が駆ける音がする。周囲のざわめきを押しのける勢いを持ったその音を、阿部はいつか聞いたことがあった。目の前のこの人が、グラウンドで決して許されないことをした日だと気付いたとき、やはりあの日のタイル貼りの闇の中でそうだったように、榛名の声だけがはっきりと聞こえた。
「でも来たじゃねーか」
 ガードレールから体を起こした榛名は先に立って歩いていく。阿部が後ろから付いて来ることを疑ってもいない証拠に、榛名は振り返ることもしない。阿部はその場から動きたくなかった。言葉もなく、ただ自身の発する引力だけで人を従わせるようなやり方を榛名が自覚的にやっているとも思えなかったけれど、それでも、まるで自分の意思で付いていくことを選び取ったようにさせるその方法が阿部には屈辱的だった。いっそのこと犬かなにかのように大声で呼びつけられた方がまだましだ、と思う。
 しばらく歩んで、付いてくる足音がないことにやっと気付いたように、榛名は首を捻ってこちらに向けた。実際の阿部の位置よりもずっと近い位置に視線をやって阿部の姿がそこにないと知ると、知らぬ間に影をなくしたような驚きを見せる。
「どーした?」
 どうもこうも、あんたはなんだってそうやって。罵るための言葉が際限なく口を突きかけて、そんなものをぶつけても無駄なのだとすぐに思い至る。この場所に来てしまった時点で、もうなにをしたって意味などなかった。
「タカヤ」
 それは決定的ななにかの呪文のように胸に響く。