ゆっくりとおとなになりなさい
三橋の家は一年の夏先に誕生会めいたことをしたときから恒例の勉強会場になっていたので、野球部二年の全員が勝手知ったる、といったものだ。部長副部長の三人は志賀とグラウンド使用権の打ち合わせをするために居残っていたため遅れての参加になった。花井は田島を筆頭としたあの面子を先に行かせることをひどく渋っていたけれど、結局は勉強には西広が付いていたし、こういうときは諫め役に回る泉がいたから、まあ大丈夫だろうと自分を納得させたようだった。学校を出られたのは四時を回った頃。十月半ばの太陽はさすがに光を弱めていたが、まだ十分明るい。
先に行かせたメンバーを追いかけて三橋家に向かう途中、いつものように飲み物を買い込むために自転車を止めたコンビニで、栄口が昼のときと同じ大人びた声質で大丈夫? と言ったとき、阿部はそれが何に対して発せられた言葉なのかわからなくて、思わずその顔を見返した。
「なに?」
「大丈夫かって聞いたの」
「何が? つーか、誰が?」
阿部が、と横顔で答えた栄口は、その後にも何か言葉を続けそうな気配を残しながら一リットルの紙パックを物色している。菓子パンの棚にややもたれて言葉の続きを待つ阿部の前で、やっと選んだウーロン茶を手に振り返った栄口は、ふうと息を吐いて眉尻を下げた。ちいさな子供を諭すときのような、静かな笑みが唇の端に浮かんでいた。
「今日、ずっと時間気にしてるからさ」
「そんなこと、」
「あるでしょ?」
有無を言わせぬ調子で言い切られると弱い。普段穏やかに見えるけれど、その実意志の強い栄口が相手なら尚更だった。一瞬詰まって、そんなことない、という反論を唇に上らせかけながら店内に走らせた視線が、無意識に壁に掛かった時計を探し当てていて、阿部はぎょっとして唇を結んだ。その一部始終を見ていた栄口は、悲しげにも見えた表情を苦笑に変えて、そんなことあるじゃん、と繰り返す。
「ずっとそんななんだもん。もしかして約束でもあるのかと思っ――」
「ねえよ!」
『約束』の四音に思わず強い言葉を投げて、阿部はすぐにそれが失敗だったことに気付いたが、もう後の祭りだった。なんでもないと言うためにも、自分に言いきかせるためにも、今の反応は失敗だ。驚いたように目を瞬かせた栄口は、すぐにいつもの顔に戻って向こうの棚の間から訝しげにこちらを窺っていた平均身長をを二つほど飛びぬけた位置にある花井の頭にちいさく手を振ってみせる。
「……悪ぃ」
「部活休みになってから阿部ちょっとおかしいし、今日なんか放課後が近くなるとすごく時間気にしてたし。ずっと気ぃ取られてんの見てたらなんかあるのかなーって思っちゃったんだよ」
それは部活が休みになったからではなくって、その頃にタイミング悪く掛かってきた電話の毒気にあてられたせいだとか、そもそも自分はそんな風におかしかったことも時間を気にしていたこともないとか、言ってやりたいことは多かったが、栄口があまりにも真剣な様子だったので阿部は黙って聞いていた。栄口の目に自分がそんな風に映っていたのは確かなのだ。
「あ。てか、オレこそごめん。お節介」
切り替えるような顔で笑った栄口に、阿部はうまく笑顔を返せなかった。
自分にもわからない、どこか底の部分を見透かされるような居心地の悪さを脱ぎ捨てるように阿部は一歩を踏み出す。リノリウム張りの床にスニーカーが擦れてちいさく音を立てる。黙って隣に並ぶと、蛍光灯の明かりも眩しい陳列棚の前に立つとひやりとした冷気が肌に触る。この冷たさを心地よいと感じた季節はとうに過ぎていた。秋大会も終わって久しい。眩しい頃は気づかぬうちに終わりを向かえ、緩やかな流れのように季節はまた反転しようとしている。
パックの麦茶を取ろうと手を伸ばしかけて、やめる。
「やっぱ、今日帰るわ」
自分がどうしたいのかもわからないまま指をたたんで、足の下に投げてあった鞄を掬い取った。突然帰ると言った阿部を目を瞬かせて見つめていた栄口は、しばらく言葉を探す素振りを見せていたけれど、結局は阿部がやっと最近見分けのつくようになった例のずっと先を見てきたような顔つきで、うん、また明日、と微笑んで阿部の腕を軽く押した。自動ドアをくぐるときに、花井の少し慌てたような声と、ごく軽い調子でそれを宥める栄口の声がしたけれど振り返らなかった。
いつもは持って帰らない教科書の重みが行くなと言っているようで、それならそれでここから動けないほど重くなってしまえばいいのにと阿部は八つ当たり気味に思う。でも決してそんなことは起こるはずもなく、いつもより少しだけ力を入れれば鞄は持ち上がり、足はどこかへと阿部を運ぶ。なにをしているんだろうという思いと、今頃部員に囲まれて世界史をやっているはずの自分のピッチャーへ向いた少しの背徳感を鞄と一緒くたに前かごに叩き込んで、阿部は自転車のスタンドを蹴った。
忘れそこなった榛名の声が、いつかの強さで、お前も来いよ、と呼んでいた。
作品名:ゆっくりとおとなになりなさい 作家名:スガイ