ゆっくりとおとなになりなさい
キン、と脳を痺れさせる音がした。足元に落としていた視線を上げると、見覚えのありすぎるフェンスとまばゆい白さを誇るライトはまだそれを取り囲む木々の先にあった。ナイター設備を羨む一方で、こんなところから音が聞こえるのか、と阿部は新鮮な気持ちで思う。そういえば、あのグラウンドで聞こえる音を外から聞いた記憶はほとんどない。いつも誰よりも先にあの場所に辿り着き、そして出るのはすべての明かりが消える頃だった。シニアに入った当初は広くまっさらなグラウンドを見ることが純粋に好きでそうしていたし、いま目の前を行くこの人が入ってからは、それよりも早く、という意地のような気持ちがさらに後押しした。そして榛名が引退した後は、もうそれが当たり前になっていた。榛名も同じことを思ったらしく、物珍しげな様子でまだ見えるはずもないグラウンドの中を覗き込むようにしている。グラウンドの中が見えてくるのは、少し先の角を曲がってからだ。
「そういやあ」
不意に榛名が振り返ったので阿部は思わずあごを引く。なんですか、と答える頬が強張った。榛名が目の前にいることに慣れない。
「お前、ガッコーから直接来たん?」
制服姿の阿部をつま先から天辺までを見渡した榛名は、光が目に入ったときのように目を眇め、
「つか、なんで練習ねーのにそんな荷物多いんだよ」
自転車の前かごからはみ出したスポーツバッグを指す。練習道具の代わりに教科書とプリントを詰めこまれたた鞄は、いつもよりも膨らんでいるくらいでやや角ばっていた。対する榛名は荷物一つ持たず、空いた方の手を所在なげにポケットに突っ込んだままだ。
「テスト週間だっつったでしょ」
「オレだってそうだけど、持って帰るもんなんてそんなにねーぞ」
それはそれで問題だとは思ったが、指摘するのも面倒くさい。
「家寄って置いてくりゃ良かったじゃねーか。時間あっただろ」
「……学校で用事があったんで、」
だから家による時間もなかったんだと伝えることは、榛名の待つ場所に急いでやって来たと言うようだと気付き、阿部はその先を続けられなくなった。不自然に言葉が途切れたことにもたいして関心を払う様子もないまま榛名はふうんと鼻を鳴らして、そして口の端を引き上げる。
「お前が制服着てその鞄持ってっと」
「は?」
「そのままシニアの練習に行くみたいだな」
ひひひ、とすくめた肩を揺らす姿で、阿部は自分がからかわれていることに気付いたけれど声を荒げて反論することが出来なかった。榛名はあの頃よりずっと背が伸びていたし、体つきも少年のそれから青年の、なによりもアスリートのものへと変わっていたけれど、そうやって笑っている姿だけ取り出すならば、榛名こそシニアにいた頃のままだった。無表情で黙って立っているだけだと、鋭角的な顔立ちと厚い体の威圧感ばかりが際立つが、一度表情が動き出せば、むしろ榛名は子供っぽく見える。あんたこそ、そのまま練習に行くみたいじゃないですか。そう言ってやりたかったが、いたずらを成功させた子供のような顔で笑っていても、榛名はとてもそんな風には見えなかったので阿部はむっつりと黙り込んだ。
話し声だけ聞いたときはなにも変わっていないと思ったのに、姿を見てしまえば違う感想を抱く。記憶と重なる部分と重なることのない部分を一つ一つ数える行為によって、胸の内に落ちてゆく、引き攣れたような感情につける名前を知らなかった。
風除けと砂除けを兼ねた木々を回り込むと突然目の前がひらける。空と地面を繋ぐように、緑色のフェンスが高く伸びていた。傾きかけの陽の光と真っ白のカクテル光線を受けたグラウンドは複雑な色合いで発光している。金網の向こうで白っぽい影が何箇所かに固まっているのが目に入った。規則的な間隔で金属音が響き、点のような白球が空を割いていくのが見える。駐輪場はさらに先にあったが、阿部はその場に自転車を停めた。停めながら、そういえば、とずっと巣食っていた疑問を口に出す。
「今日、なにしに来たんですか」
「オレーマイリ」
外国語のような平坦な発音が、「御礼参り」と脳内で一致したのは数秒後だった。それはなにか言葉の使い方が間違っているんじゃないかと思わないでもなかった。が、それよりも、そういう気持ちを榛名が持っているということに驚く。周囲がどれだけ尽くしても、榛名はそれに感謝するどころか意識もせずにいるのだと思っていた。それどころか一人で生きてきたと豪語して憚らない人のような気がしていた。
「挨拶してこいって言われてんだよ。まあ、実際世話んなったし」
さらに続いた言葉の意味の気を取られすぎて、阿部はそのときの榛名の表情を見逃した。耳の残った声の響きが深い、深いものだったことはわかったが。
作品名:ゆっくりとおとなになりなさい 作家名:スガイ