ゆっくりとおとなになりなさい
改札をくぐった榛名は眩しいものを見る顔つきでゆっくりと目を閉じ、また開く。人波の交わる場所で歩む速度を緩めた榛名に気付いた眼鏡の視線が、榛名の眼差しの先を追って自分に辿りつくまでを阿部は冷静な諦めの中で受け止めた。
いま阿部がこの場にいることは一つの賭けだった。賭けていたのは、これからだ。そのためにこんなところまで、古典の試験対策と数学壊滅組みの特訓を捨てて来たのだった。こんなに確率の低い賭けで当たりを引いてしまう自分の不要な部分での引きの良さは、そういえばこの人に出会ったということで十分証明されていたのだったと今更ながらに思い出す。
「タカヤ?」
壁に寄りかかっていた背を離す。昨日の名残を残すようにいまもまた驚いた顔をしている榛名が大股で近づいてきた。少し離れて付いてくるさっきの眼鏡の人影に覚えがあった。榛名の球を受けていた。武蔵野の捕手だ。確か秋丸と言った。
「……待ち合わせ?」
「してねえ」
遠慮がちな声に簡潔に答えて、榛名は阿部を見下ろした。
「なにやってんだ、お前」
「元希さんを待ってたんです」
元希さん、と呼びかけると喉が攣れるように痛んだ。この名前を呼ぶことを自らに禁じて、遠ざけていた時間が長すぎた。
「待ってただあ? こんなとこで?」
なんで? 重ねられる問いかけは当然のものだ。阿部は榛名の目だけを見てしっかりと言った。声に余計な感情が混ざらないようにと、それだけを祈る。
「言い損ねたことがあったんで」
「なんだよ」
問い詰める口調の榛名の視線に負けるかと睨み上げる。榛名が表情を険しくしかかるのと、秋丸が割って入ったのが同時だった。
「ちょっと待った。オレ先に帰るよ」
「なんで」
「なんか、大事な話みたいだから」
秋丸はさらりと嫌味のない様子で言う。横で聞いていた榛名は、そうなのか? と阿部に視線を向けてくる。重要だと言ってしまっていいのか。ものすごくくだらないもののようにも思えて、阿部が逡巡していると、秋丸はそんな様子を好ましいものだというように口元に柔らかな笑みを浮かべた。榛名に向き直ったときは切り替えたように厳しい顔つきだった。
「榛名、明日は世界史と英語だからな。また忘れんなよ」
「うせえなあ。わーってるよ」
溜め息を吐いて、じゃあね、と手を振った秋丸がホームへと消えて行くのを見送って、阿部は目線を上げた。
「テストの時間割まで間違えるなんて……。人として信じらんねえ」
「うるせえな。たまたまだよ、たまたま! 一日違う日見てただけだっつーの」
それを「だけ」と言える精神力が信じられない。呆れが多く混じった溜め息をひとつ吐き、くだらない言い合いになりかけた空気をやり直す気持ちでもう一度元希さんと呼ぶ。今度はいくらか滑らかな響きだった。
「言い損ねたってなんだよ。こんなとこで待ち伏せまでして」
阿部だってまさか会うとは思っていなかった。最寄の駅で一時間、それだけ待って出会わなければ、いままでと同じように中二の初夏のグラウンドで焼き付けた背を憎んで、箱の中のなにかを閉じ込めて押し込めたままいようと思った。何も変わらない日々の一つとして。いままでもそうやってきたように。
でも、もしもこの混雑した時間帯に、榛名が使っているかもわからない駅で、しかもたった一時間の中で出会うという奇跡のようなことがあれば、そのときは諦めて、二度と顧みないと決めた封印を解き、もう一度正面から向き合ってみようと思ったのだ。
「おめでとうございます」
「は?」
「って。言い忘れてたんで」
何のことだかと言う顔をした榛名は、すぐに答えに思い至ったらしく傾けた首を立て直し唇をぐっと引いた。挑発的とも取れる、いつもの笑みだった。
「お前って結構そーゆーとこ律儀だよな」
さんきゅ。かつてよくそうしていたように頭上に伸びてこようとする手をさえぎって阿部は本題を切り出した。
「オレ、元希さんのこと嫌いです」
「は? ……なんだ?」
「嫌いなんすよ」
念を押すように繰り返した言葉は思いのほか切実に響いたので、予期しない話の展開に眉を跳ね上げた榛名は少し静かになった。阿部が背中を預けていた壁に、少し離れて背を凭れかけさせて、ふうんとただ鼻を鳴らした。
「あんたが三年の関東のとき、ノーアウト満塁でマウンド降りて」
すごく、頭にきた。悔しかった。憎んだ。悲しかった。それまでのすべてが虚しくなった。
感情を表す言葉をいくら並べ立てても、あのときに感じたグラウンドの広さや、トイレの薄暗く饐えた臭いや、握り締めたこぶしの熱を表す言葉にはならない。押し黙った時間の長さで何かが伝わるのならそれで良かった。
榛名は謝らなかった。しんとした瞳のまま、短くそうか、と言った。
それでよかった。そうであってほしいと阿部も願っていた。謝罪の言葉がほしかったわけではないのだ。ただ、そう感じていた阿部がいたことを知っていればそれでいい。
「でも昨日は、」
その先を言う覚悟を決めて息を吸う。
「会いたかったから行ったんです。――あんたのことが」
ゆるしたかったから。
口に乗せると、まるい。泣きたいくらい柔らかな響きの言葉だ。
ゆるせなかったのは自分がまだ子供だったせいで、ゆるせたのはふたりがあの時子供だったことに気付いたからだ。背中を追いかけるばかりで、正面で榛名がどんな表情をしていたのかを知らなかった。そのことにやっと思い至った。そんな自分もまだ、試験に追われる子供でしかないけれど。
「そっか」
呟いた榛名の手が、一人分の距離を越えてもう一度伸ばされる。阿部の髪に指を差し込んだ手は左手だった。同じように撫でられた日があって、同じ手が空を裂いて白球に命を吹き込む行為に心臓が痛むほど焦がれていたことがあった。もう同じように思いを向けることは出来ないけれど。マウンドの上の榛名を思うと痛む傷はまだ消えないけれど。
できることならば、もう一度はじまるものがあればいいと思った。
電話を取ったときにも、駅前に自転車を走らせたときにも、いまここに来る前にも、そうしなければいけないと思った、強迫の正体。
ゆるやかにおだやかに、大人になってゆくのと、同じ速度で。
作品名:ゆっくりとおとなになりなさい 作家名:スガイ