ゆっくりとおとなになりなさい
夜の翳りが降りる前に阿部は監督に別れを告げそっとフェンスの外へ出た。自分の場所を奪われたような顔でブルペンを眺めている榛名には何も告げなかった。
「おい」
鞄を前かごに押し込もうかという瞬間に真後ろでフェンスが鳴る。掴んだ格子を荒く揺すった榛名は、阿部が振り返ると滑らかな動きでフェンスの切れ目を潜り抜けた。
「オレも帰る」
見つかった。苦々しい気持ちを表情に出すようなへまはしなかったが、ちいさな溜め息は隠しようがなかった。
「なんだよ?」
「なんでも」
「じゃあ溜め息なんかつくなよ。感じわりーな」
「スンマセンね」
口をつく言葉の素っ気無さとは真逆に、阿部の胸の中ではうるさいくらいに様々な言葉が散らばっていた。それぞれが主張しあって、なにがあるのかさえわからない。一番上のところにはさっき監督に言われた、後悔していないかという言葉が乗っていた。その下にはさっきの幼い面立ちのキャッチャー。そこから下はもうわからない。喉を下から押し上げるような感情と言葉の断片には、すべてに榛名と書いてあることだけがわかっている。口を開けばそのどれかが飛び出してしまいそうな予感がしたので阿部は黙って後輪のスタンドを蹴り上げた。
榛名が当然のように前に立ったので、阿部はまた自転車に乗る機会を失って、そんな自分を忌々しく思いながらハンドルを引いた。
榛名はここからバスで帰る。シニアに通っていたときの習慣のままならそうだった。ここまで付き合ったのだからバス停までの短い時間が増えたところで、と自分を納得させていたが、なぜここまで付き合ってしまったのかという問いの答えは相変わらず出ていなかった。本当は喉元まで這い上がった感情たちの中にその答えがあることを、阿部はどこか本能に近いところで知っている。
バス停は夕闇の中にあった。記憶の中にあった褪めた色のベンチはなくなっていて、代わりに真新しいベンチが風景に馴染む様子もなく置かれている。榛名はバスの時間を調べようともせず椅子に歩み寄った。
「じゃあ」
これで今度こそ会うことはないんだろう。榛名の生活はこれから加速的に忙しさと華やかさを増してゆくはずだった。自分だって最後の大会を視野に入れたオフシーズンの、いまが入り口なのだ。他の事に気を取られている暇も余裕もきっとない。少なくとも、榛名のことを考えることは、ない。
「……あんた、なんでオレのこと呼んだんですか」
「あ?」
振り向いた榛名は瞬いて目を眇めた。
「なん――」
そこで言葉は切れた。夕闇に溶けかかっていた輪郭を黄色い光がもう一度引きなおす。大型の車特有の底から響くようなエンジン音。バスが来たのだ。
「早っ」
あっさりと姿を見せたバスがなぜか迷惑だとでも言いたげに榛名は眉をしかめる。他に行くもののない道路を悠々と照らしつけたバスが、一つのおおきな生き物のような横腹をさらす。
「じゃあ」
「おぉ、じゃーな」
阿部が頭を下げると、榛名は言葉が途中で切れたことも忘れたようなこだわりのない様子でぽかりと明るい開口部に足をかけた。しかしふいに顔だけで振り返る。鋼色の瞳に蛍光灯の光が浮かんだ。
「さっきのさあ」
らしくもなく言いよどみ襟足を掻く。そのすべてを阿部は瞬きも出来ないまま見つめていた。
「自分でもよくわかんねえ」
ビービービー。いつまでもタラップと地面の両方に足をかけている榛名を叱るようにブザーが鳴る。榛名はどちらの足を引こうかとほんの一瞬だけ迷いを見せたが、勢いをつけてアスファルトを蹴った。
「たぶん、お前に会いたかったんじゃねーの」
長身の影は重さを感じさせない動きでバスに吸い込まれる。
「……元希さん」
喉を狭めて胸を圧して逆巻いていたものが、耐え切れず溢れてこぼれた。二年半呼ぶことのなかった名前は、ほんの少し喉に掛かったが錆付いてはいなかった。榛名の印象的な眼差しのずっと奥の方が強く光り、驚きに見開かれるのを閉まるドア越しに見た。
オレはまだ何も聞いてない。
あんたの口からは、何も聞いてない。
それに、何も言っていない。あんたを憎んだことも、絶望したことも、蔑んで塗りこめた日々のことも、それでもあの腕が投げる球に魅かれてやまなかったことも。いま目の前に立っているなら、抑えこんでいた分まですべてぶちまけてやるのに。
バスの光はもう見えない。
なによりも、言いたいことだけ言って反論をさせずに去っていく、あんたのそういうやり方が一番嫌いなのだ。
言ってやりたいときにはあの人はいつもいなかった。
作品名:ゆっくりとおとなになりなさい 作家名:スガイ